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延岡市民は、五ケ瀬川から北を川北地区あるいは岡富地区(旧岡富村)、五ケ瀬川と大瀬川に挟まれたところは川中地区(旧延岡町)、大瀬川から南は川南地区または恒富地区(旧恒富村)と、呼び分けている。
この3地区は昭和5年(1930)4月1日に合併して新しい延岡町となり、さらに延岡町がそのまま市制を敷いたのは昭和8年(1933)2月11日。これが旧市である。
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永池という地名は、文字通り長い池があったことから名付けられたという。永池町の北隣の三ツ瀬町は、昔は川(大瀬川の一部かも)になっていて、三つの瀬があり、それが名前の由来という人もいるが、確証を得ない。
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永池町1丁目にこじんまりとした社(やしろ)がある。それが「権現さん」。「永池権現」ということもあるが、正しくは「永池神社」。建物の間に挟まれるようにして鎮座しているため目立たないが、特に地元の永池、三ツ瀬、大瀬、安賀多、愛宕、新小路など恒富地区の人たちの信仰が厚い。小嶋さんは、権現さんの思い出を、次のように書いている。
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戦時中は、軍馬が多数必要になり、牛や豚の生産より優先された。その結果、昭和18年(1943)に東臼杵郡市畜産組合は廃止され、和牛や豚などは農業会(農協の前身)へ、馬は東臼杵郡延岡市馬匹(ばひつ)畜産組合を設け、それぞれ育成にあたった。
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昭和38年(1963)発刊の「延岡市史」の「東臼杵郡畜産組合」の項に、延岡の畜産の歴史について次ぎのような記載がある。
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耕運機が普及しはじめた昭和30年代前半までは、日本中どこでも農耕で活躍する牛馬が見られた。県北でも農家の多くが牛や馬を飼っていて、田起こし(田打ち)などで活躍した。小嶋さんは、牛馬組合の思い出を次のように書いている。
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大木、巨木といわれる大きな木は、屋久島の縄文杉をはじめ、全国各地にある。延岡市の春日神社にあるクスノキもその一つ。春日神社には大クスが3本あり、うち2本は拝殿の両側、もう1本は神社入口の手水舎の南側にある。ほかにも大木がいくつかある。
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8世紀中ごろから延岡地方の宇佐八幡領を治めることになった土持氏は、しだいに領地を拡大し、14世紀、室町時代初期(南北朝)の土持一党(土持七頭)は、現在の高鍋、宮崎、日南方面まで勢力が及んでいた。
井上城は、この時代に築城されたようだが、土持氏は南の島津氏の脅威にさらされ、伊東氏と組んで島津氏の北上を阻んだ。正長2年(1429)、土持全宣(やすのぶ)は井上城から西階城(宝坂城)に居城を移し、さらに土持宣綱は、文安元年(1444)に松尾城(現松山町)に移った。
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井上城があった天守山(天主山、天子山)は、土持氏の居城だった。それがいつできたのか、正確な年は、わかっていない。土持氏は、建武の新政(1334)直後の建武の騒乱のとき、北朝方についたことで暦応2年(1339)、恩賞として県荘(あがたのしょう)の半分を与えられており、築城はその少し後の14世紀半ば近く(1340年代)ではないかとみられている。
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天守山は、延岡の人は「てんしゅやま」といわずに「てんしやま」(天子山)というのがふつう。
「昔、土持(つちもち)の殿(との)さんが住んじょったげな」。こんな話を聞かされたものである。天守山は読んで字のごとく、城郭があったわけで、「井上城」と呼ばれる。今は城跡をしのぶものは残っていない。小嶋さんは天守山について、次のように書いている。













