制作CM
延岡シネマ映画情報
-
新着ニュース
最近のコメント
- ひむか太鼓連盟が結成10周年記念チャリティー公演 に くりりん より
- フリーペーパー「0982」創刊 に 0982.TV より
- フリーペーパー「0982」創刊 に 学校のプールに浮いてる虫 より
- (おすすめスポット)癒やしのスポットへようこそ! 鹿川キャンプ場がオープン-延岡市北方町 に ヤマメのてっちゃん より
- 「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(85)延岡中学校=番外編③= に hiro より
広告バナー
延岡市・日向市・門川町・美郷町・諸塚村・高千穂町・日之影町・椎葉村・五ヶ瀬町の情報をお届けしています。
耕運機が普及しはじめた昭和30年代前半までは、日本中どこでも農耕で活躍する牛馬が見られた。県北でも農家の多くが牛や馬を飼っていて、田起こし(田打ち)などで活躍した。小嶋さんは、牛馬組合の思い出を次のように書いている。
大木、巨木といわれる大きな木は、屋久島の縄文杉をはじめ、全国各地にある。延岡市の春日神社にあるクスノキもその一つ。春日神社には大クスが3本あり、うち2本は拝殿の両側、もう1本は神社入口の手水舎の南側にある。ほかにも大木がいくつかある。
8世紀中ごろから延岡地方の宇佐八幡領を治めることになった土持氏は、しだいに領地を拡大し、14世紀、室町時代初期(南北朝)の土持一党(土持七頭)は、現在の高鍋、宮崎、日南方面まで勢力が及んでいた。
井上城は、この時代に築城されたようだが、土持氏は南の島津氏の脅威にさらされ、伊東氏と組んで島津氏の北上を阻んだ。正長2年(1429)、土持全宣(やすのぶ)は井上城から西階城(宝坂城)に居城を移し、さらに土持宣綱は、文安元年(1444)に松尾城(現松山町)に移った。
井上城があった天守山(天主山、天子山)は、土持氏の居城だった。それがいつできたのか、正確な年は、わかっていない。土持氏は、建武の新政(1334)直後の建武の騒乱のとき、北朝方についたことで暦応2年(1339)、恩賞として県荘(あがたのしょう)の半分を与えられており、築城はその少し後の14世紀半ば近く(1340年代)ではないかとみられている。
天守山は、延岡の人は「てんしゅやま」といわずに「てんしやま」(天子山)というのがふつう。
「昔、土持(つちもち)の殿(との)さんが住んじょったげな」。こんな話を聞かされたものである。天守山は読んで字のごとく、城郭があったわけで、「井上城」と呼ばれる。今は城跡をしのぶものは残っていない。小嶋さんは天守山について、次のように書いている。
愛宕山は小嶋さんも書いているように、愛宕神社があることから、その名が出ている。もとは城山にあった神社で、初代延岡城主の高橋元種公が県城築城のため、愛宕山に移したという。愛宕神社の少し上の谷には、延岡城を築城するとき、切り出すためにノミを入れた跡が残っている大きな石が、そのまま置き去りにされている。
延岡市北川町俵野の可愛岳(えのたけ)東麓には、ニニギノミコト陵(可愛之山陵=えののみささぎ)伝説地、北川町八戸(やと)には、神武天皇を大和の国へ道案内をした「八咫烏」(やたがらす、やとがらす=天照大御神が神武天皇に授けた3本足のカラス)の伝説も。国道326号線の八戸トンネル入口には、2羽のカラスが「八」の字になった「八戸村」と「八咫烏」と刻まれたレリーフがある。
「古事記」や「日本書紀」によると、瓊々杵尊(邇邇芸命=ニニギノミコト)は高天原から猿田彦大神(猨田毘古神=サルタビコノカミ)の先導で高千穂の槵觸峰(久志布流峰=くしふるみね=日本書紀では高千穂峰)に天降(あまくだ)る。
延岡の神社といえば、北の今山八幡宮、南の春日神社を連想するほど、春日神社は延岡の大社の一つである。地域の人々は親しみを込めて「春日さん」と呼んでいる。今は神社の周囲は住宅で埋まってしまったが、明治・大正時代は広々とした田園にポツンと、鎮守の森に囲まれた島のようになっていた。小嶋さんは、春日さん付近の思い出を次のように書いている。