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小嶋さんは、「新小路は広い区域の地名だった」と書いている。確かにそうだった。昭和32年(1957)の町名変更まで新小路と名が付いていたのは、北新小路、東新小路、南新小路。西側は西小路(さいこうじ)で、新小路を冠しない別の町。このうち南新小路が現在の新小路、東新小路は三ツ瀬町となったが、北新小路は今も同じ町名で残っている。
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新小路は大瀬川右岸に広がる住宅地。江戸時代は閑静な武家屋敷だった。今はその時代の家屋はわずかしか残っていないが、どこか古い時代を感じさせる雰囲気が漂っている。小嶋さんは、新小路の思い出を次のように書き残している。
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日本の民間パイロット第1号になった後藤勇吉氏のその後の活躍はめざましく、大正11年(1922)日本初の旅客輸送成効、12年9月の関東大震災のときは、東京~大阪を何度も往復して、6万通の郵便物の輸送をこなしたほか、被災情報を大阪の新聞社に届けた。
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小嶋さんがこの項①で紹介した7人の旧制延岡中卒業生の中に、後藤勇吉氏の名もある。後藤氏は日本の飛行士の草分けであり、民間パイロット第1号免許取得者として知られる。
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小嶋さんがこの項の①で紹介した7人の旧制延中卒業生の中に、旧日本陸軍・平野庫太郎(くらたろう)大佐の名がある。平野大佐は生涯軍人として真っ直ぐ歩んだ人だったが、最期は筆舌に尽しがたい悲劇のうちに人生の幕を閉じた。
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歌人・若山牧水は酒を好んだことはよく知られているが、朝酒をたしなむようになったのは30歳代から。昭和2年(1927)、延岡に帰ってきたとき、北小路の谷次郎(自路)氏宅に宿泊している。谷氏とは師弟の間柄。
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旧制県立延岡中学校(延中)が開校した明治32年(1899)当時の校舎周辺は、一面の田んぼだった。その後もほとんど変化は見られなかったが、戦後、近くに西小学校や恒富中学校が開校してから急速に住宅が増えた。
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延岡市の戦後の県立高校は、非常に複雑な経路をたどった。昭和23年(1948)4月、旧制の延岡中と延岡高女の生徒の半数、それに県立延岡工業学校の全生徒を収容して現在の延岡高校の場所に県立延岡恒富高校を設立。一方、本小路(現岡富中の位置)には、延岡高女(生徒の半数)と延岡商業学校が合併して県立延岡岡富高校が開校した。
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旧制県立延岡中学校の前身は、旧延岡藩主・内藤家や内藤家の家臣が出資して明治5年(1872)に創設された延陵社学、同8年(1875)に開校した変則中学制の学校・亮天社(りょうてんしゃ)にさかのぼる。
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小嶋さんも書いているように、構口・伊達地区の発展は、大正11年(1922)2月11日に開業した南延岡駅によるところが大きい。日豊本線は、北と南の両方から延岡を挟み撃ちするように工事が進められ、延岡駅より南延岡駅の方が、3カ月ほど早くオープンしている。
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