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小嶋さんは、方財島に関してことのほか詳しかった。というのも、戦前に5年間、方財小学校の校長をされていたからであるが、それ以降も亡くなるまで、たびたび方財を訪れ、地区の人たちと交流した。その間、方財の歴史や民俗、教育などを研究、著書「郷土史 方財島」(昭和50年=1975発行)にまとめた。「延岡百景 今と昔」の方財島の項には、次のようにつづられている。
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延岡の歴史に残る大洪水をみると、明治以降だけでも明治17年(1884)、大正7年6月(1918)、昭和18年(1943)9月20日、19年9月、20年9月25日、25年9月、29年8月、29年9月、36年7、8、9月・・・。最近では平成9年(1997)9月、16年8月、17年(2005)9月などがある。
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「切れ港」(毛無し浜=毛無し)と延岡市街地の水害とは、切っても切れない関係にある。この項①の小嶋さんの記述にもあったように、台風などで大雨が九州山地に降り注ぐと、五ケ瀬、祝子、北の3河川に大量の水が流れこむ。それが延岡で一つにまとまり、以前は1カ所しかない河口から外海(日向灘)へと吐き出されていた。
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「切れ港」は方財町と長浜町をつなぐ砂浜、通称「毛無し浜」のところをいう。このユニークな地名が、しだいに市民から忘れられようとしている。小嶋さんは昭和8~13年(1933~38)まで、方財小学校の校長をしていたことがあり、「切れ港」の事情についてはくわしい。以下はその思い出の記述である。
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「おせったい」というと、すぐ「大師祭り」(おだいっさん)を思い出す。中には、四国八十八カ所巡礼の途中で、おせったいにあずかった人もいるだろう。ここで小嶋さんが紹介する「おせったい」は、戦前、夏場に延岡で見られた“期間限定”のおせったいである。
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「おせったい(お接待)」ならば春3月、今山の大師祭だと思う人が多かろう。けれども、絵の「おせったい」は夏7月恒富本村の昔からのおせったいの日。むしろ、古風な、郷土色あふれる行事で、場所は10号線の国道ばた。現在、トヨタ自動車の事務所前あたりだった。
小屋は組立式の藁ぶき、7月の日がかんかん照りつけ、風が日向灘から吹き通す道ばた。期間は1カ月、90戸ある恒富本村から、毎日6人ずつ出て、終日、給仕に奉仕する。客に出すのはお茶の外に、あずきやささげの煮豆、時にはおこわ飯・おはぎ・おだんご、煮〆(にしめ)なども――。
何のためのお接待か。地区の長老格、金崎のおじいさんに聞くと――。「第一に、農作物に虫がつかんごつ、そりかり、家族のもんが暑さにあたらんごつ」とのこと。
国道筋のことで、明治・大正、一本しかない往還(おうかん)だから、通るわ通るわ。畚(ほご)かつぎ、そらくちかつぎ、馬車ひき、大八車ひき、人力ひき、焚物(たきもん)売り、野菜売り、大人に子供、老人に青年、男に女。
土々呂や門川あたりから、行きがけに寄る人、帰りがけに寄る人、汗びっしょりの肌ぬぎ、中には腰まきを臍(へそ)ごろまでまくりあげて、溝(みぞご)に飛びこむと、顔からどん腹から、ふとももから、ざっぶざっぶ――。
そうすると小屋から声がかかる。「こらこら――、今日(きゅう)は、あんたんお接待が一等賞じゃもんの――」。久しく続いたこの行事、戦争から此の方、やまってしまった。
〇今山大師祭のおせったい
昔から弘法大師は庶民に親しみの深い大師。今山大師寺では毎年盛大な法要を営む。市内一般で も町ごとに尊像をまつり、お接待を行う。明治・大正の子供たちは、数日前から、その日、「お 接待もらい」に廻ることを楽しみにしており、農村の人たちは、合財袋をさげ、お遍路(へんろ )さんは、白手っ甲に白脚絆、笠をかぶり、鉦(かね)を鳴らしながら、貰って廻った。(原文 を一部修正)
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明治・大正時代、おせったい所があった場所は現在、(株)ケーブルメディアワイワイ、ネッツトヨタヒムカ(株)延岡店になっている
小嶋さんは、大師祭を「春3月」と書いているが、旧暦の3月のこと。弘法大師の命日は3月21日になっており、延岡では毎年4月の第3日曜日(金、土、日)が大師祭(おだいっさん)と決まっている。祭りは実際には金・土・日と3日間行われる。お接待は、その間に市内各所で見られる延岡の風物詩。
文中の合財袋は「合切袋」(がっさいぶくろ)のこと。大師祭のときは、あちこちの接待所でもらったお菓子などを、合切袋に文字通り一切合財詰め込む。これが大師祭の楽しみの一つでもある。
小嶋さんが紹介した「おせったい」の場所は、愛宕町のトヨタ自動車事務所前あたりとなっているが、正確には宮崎トヨタ自動車(株)延岡店のことで、その後、塩浜町1丁目の国道10号線沿いに移転した。現在、跡地はネッツトヨタヒムカ(株)延岡店になっている。
小嶋さんが前出の文を執筆した昭和49年(1974)ごろは、同社前の道路は国道10号線だったが、50年(1975)に開通した延岡バイパスが国道10号線となり、旧10号線は県道稲葉崎平原線になった。バイパスの開通によって、旧10号線の交通量は劇的に減った。
服を脱いで溝に飛び込んだ人の様子が書かれているが、この溝は出北用水のことで、現在は県道稲葉崎平原線の下を通って、旭化成ケミカルズ(株)薬品工場正門のすぐ東側に用水溝が顔を出している。この用水溝は、薬品工場の南側の塀に沿って流れ、日豊本線の下をくぐって、別府町(びゆうまち)から長浜方面の水田を潤している。
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開校当時の延岡商業学校は、乙種商業学校で修業年限は3年、定員は150人だった。それが翌年の大正11年(1922)には甲種商業学校に昇格し、修業年限5年、定員も250人になった。
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延岡商業学校は当初、東臼杵郡立として誕生した。生みの親は当時の東臼杵郡長の大山綱治氏だが、設立までの事務はすべて小嶋さんがこなした。以下の文は延岡商業学校に関する小嶋さんの思い出だが、設立準備で苦労したことや教師として体験したことなどは、一切触れていない。千辛万苦というか、人には理解してもらえないような苦労が、山ほどあったハズなのに。
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この項①で紹介した小嶋さんの文章にもあったように、出口の手すき和紙は良質で、国内外の博覧会で入賞したこともある。
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紙すきというと、日向市の「美々津紙」を連想する人が多いだろうが、延岡でも明治・大正時代は、出口地区で紙すき業が盛んだった。優秀な和紙で、国内外の博覧会で入賞している。小嶋さんは、紙すき屋の思い出を次のように記述している。
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北新小路は、文字通り新小路の北に続く街並み。大瀬川の南側(右岸)に沿った町で、静かなたたずまいを見せているが、明治・大正時代はもっと落ち着いた静かな地区だった。というのも、江戸時代は武家屋敷が並び、その面影を残していたからである。小嶋さんは、北新小路の思い出を次のように書いている。
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