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戦前、延岡は競馬の盛んな町だった。いつごろから始まったのか正確な記録は残っていないが、明治中ごろには川原崎(現在の昭和町の一部も、当時は川原崎だった)の五ケ瀬川沿いに、200㍍ほどの直線コースがあったという。
わずか3、40前まで馬や牛が田畑を耕す姿が、日本中どこでもごく普通に見られた。中でも牛は、ほとんどの農家が飼っていた。しかし、耕運機やトラクターが普及すると、特に農耕馬は激減した。現在、延岡市で農耕馬を飼っている農家はほとんどない。軽種馬(サラブレッドやアラブ馬など)も、鷺島(さぎじま)の延岡乗馬クラブ以外では、まず見かけることはない。
西南戦争では、薩摩の兵士に加えて、延岡、高鍋、飫肥、都城などの各隊も参戦している。これらは党薩諸隊といい、延岡隊は旧藩士で組織され、約250人が戦場の熊本に向かった。ほかに農兵ら合わせて約1400人が参加している。
カネと物資のない戦争は、実にあわれなものである。先の太平洋戦争がそうだし、西南戦争も例外ではなかった。薩軍の戦費は70万円余(西郷札を除く)に対し、官軍は5000万円ほど投入している。これでは土台話にならない。
小嶋さんが方財の老人から聞いた話の中に「東海方面に戦が移っていて(中略)、刀がきらきら光って、何ゃいらん、タチの魚を投げ散らかすごつありました」とある。
「タチの魚」とは、太刀魚(たちうお)のことで、刀がきらきら光るのを、「タチの魚を投げ散らかすごつありました」という表現をしているところが、刀を振り回して戦う様子を見事に描写していておもしろい。
老人の話の中で、方財に来た薩兵に、住民が食事を与えているが、薩兵はこうした接待を各地で受けている。方財では官軍が薩兵のすぐ後を追っており、薩兵を座敷に上げて食べさせる余裕などなかったはずで、おそらくおにぎりをパクッと加えて、すばやくお茶を飲み、お礼を言って立ち去ったことだろう。それは次の話からも、容易に想像できる。
延岡市方財小の元校長、故・小嶋政一郎さんの著書「方財島」に、興味深くおもしろい件(くだり)があるので紹介したい。小嶋さんは、昭和8年(1933)4月から13年3月まで同校の校長として勤務。その間に方財の古老から聞いた西南戦争の話を「方財島」に記した。文は短いが、西南戦争を実際に見た人のナマの声を記録した非常に貴重な資料である。
小嶋さんの執筆活動は、晩年まで衰えを知らなかった。遺作となったのは昭和51年(1976)5月に発行された「延岡百景 今と昔」だが、その前年には「方財島」(改訂版)を出版している。 方財島という非常に限られた地域の歴史・民俗・教育のことを、地元出身でもない人が、1冊の本にまとめあげるというのは、珍しいのではなかろうか。小嶋さんが、いかに方財島に愛着を持っておられたか察することができる。そこで、著書「方財島」の中から「低学年の護岸工事」の記述を紹介したい。
小嶋さんは、方財島に関してことのほか詳しかった。というのも、戦前に5年間、方財小学校の校長をされていたからであるが、それ以降も亡くなるまで、たびたび方財を訪れ、地区の人たちと交流した。その間、方財の歴史や民俗、教育などを研究、著書「郷土史 方財島」(昭和50年=1975発行)にまとめた。「延岡百景 今と昔」の方財島の項には、次のようにつづられている。