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延岡市には「神話の里」と呼ばれる高千穂町に勝るとも劣らぬほど多くの神話・伝説が残っている。その一つ、行縢神社と景行天皇・日本武尊の伝説に触れてみたい。
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土々呂漁港は戦後しばらく、今のような立派な岸壁はなく砂浜海岸の状態だった。その北に続く砂浜は、土々呂海水浴場として、夏はイモの子を洗うような海水浴客でにぎわった。現在は一部が土々呂臨海公園として整備されている。
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明治・大正時代の土々呂港は、漁港と商業港の二つの顔を持っていた。今でもそれは変わらないが、明治・大正時代にはあった関西からの定期航路は、今はない。鉄道(日豊本線)が開通する以前、この定期航路は宮崎県と大分、四国、関西を結ぶ重要な交通機関だった。小嶋さんは、土々呂港の思い出を、次のようにつづっている。
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旧恒富村と旧伊福形(いふくがた、いがた=伊形)村との境界は沖田川だった。その沖田川の旧国道に架かる橋が「笹目橋」である。長さ100㍍ほどの橋で、戦後しばらくは木造、路上は砂利道という粗末な状態が続いた。現在は立派な永久橋だが、日豊本線沿いに国道(10号線)が移ったため、今は県道になっている。小嶋さんは、笹目橋の思い出を次のように書いている。
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沖田川と浜川の河口に位置するのが「夏井の浜」。今は「沖田川河口」と呼ばれる。ここは、延岡市内を抜ける国道10号線から、日向灘を直接見ることができる貴重な場所であり、眺めがいい。
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街中を流れる川に橋があるのは当たり前。しかし、明治・大正時代の延岡には大瀬川に大瀬橋、五ケ瀬川に板田橋、祝子川には祝子橋しかなかった。あとは洪水時に水没する潜水橋(沈み橋)か、渡し船だった。その一つが「出北渡し」。小嶋さんは、その思い出を次のように書いている。
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提灯(ちょうちん)行列は、大人数が参加して、文字通り提灯を持ち、列をなして市中を歩く行事である。延岡だけでなく、全国各地で見られる。小嶋さんは提灯行列の思い出を、次のように書いている。
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愛宕山の北麓、延岡警察署の正面に小さな洞穴がある。小嶋さんは、タイトルに「アイヌ遺跡」と書いている。遺物から縄文時代の遺跡であることはハッキリしているが、アイヌの遺跡という証拠はない。ただ当時の人たちは、そう呼んでいた。以下に紹介する小嶋さんの文にも、アイヌという表記は見あたらない。
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「丸か島」は、延岡市の長浜海岸沿いの東浜砂町から長浜町一帯の古い地名で、明治末期の地図には「丸賀島」や「丸ケ島」などと記されている。現在でも、長浜町のことを「丸か島」と呼ぶ人がいる。
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昭和5年(1930)新たな競馬法ができ、競馬場のコースは一周1000㍍、コース幅は16㍍必要となり、条件を満たさない三ツ瀬競馬場では開催できなくなった。そこで東臼杵郡畜産組合や関係町村は移転先を探すことにした。
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