天の山の神と鳴子川の水神
ふだん何気なく通り過ぎる小さな社(やしろ)や石塔・石碑には、不思議な伝説や昔話が伝わっていることがある。今回は門川町に数ある小社の中でも、門川町尾末の天の山に鎮座する「天神社」(天のんさん)と「天上神社」、それに加草の「鳴子川水神」を紹介したい。
天の山
門川町尾末地区に海抜10数メートルの小高い丘がある。地元ではこの丘を「天の山」(てんのやま)と呼んでいる。門川町役場から300メートルほど北、門川神社の鎮座する山の一部が丘陵状に海へ向かって突出し、丘陵が門川漁港で途切れるところに位置するのが天の山。天の山と門川神社との間を走る国道10号線は、丘陵の鞍部を越える地点で緩やかな坂道になっている。JR日豊本線は、丘陵を断ち切った切通しの間を抜けている。
天の山の上は区画整理がなされ、建て直された比較的新しい住宅が並んでいるが、天の山の崖下は、海岸通りに沿って、古い民家が肩を寄せ合うようにして建っている。海岸通りの東側は門川漁港や門川湾が広がり、漁港に沿って「門川漁協」「うみすずめ」それに水産加工工場などが集まり、水産関連業の団地を形成している。
天の山という地名の起こりはハッキリしないが、案内板「天の山の由来」によると、祭られている神は綿津見神(ワタツミノカミ=大綿津見神、海神)とある。天におられる神が鎮座することから、この丘陵をそう呼ぶようになったのかもしれない。
綿津見神は「潮満の珠」(塩盈珠=しおみつのたま)と「潮乾の珠」(塩乾珠=しおひるのたま)を持ち、人々の災いをはらい、幸福をもたらすという。案内板には2つの珠を持った綿津見神が描かれている。
また綿津見神は海の神として広く知られるが、海幸彦・山幸彦の物語りには、海の水だけでなく、陸の水をも支配する神として登場する。人々を幸福にするか、逆に貧困のどん底に突き落とすかのカギを握った神ともいわれる。
昔、半農半漁の人たちの住まいは、海岸から少し離れた場所にあり、漁具を納める倉庫(納屋)を尾末の海岸沿いに置いていた。その納屋にいつしか人が住むようになり「納屋集落」として発展したものと思われる。それが「納屋」(上納屋、下納屋)という地名で後世に残ったようだ。
人々は漁に出かけるとき、自宅から納屋までやって来て天の山の神に手を合わせ、漁業の安全と大漁を祈願したことだろう。そして、イザ地震・津波のともなれば、天の山に駆け込んだのではなかろうか。天の山は納屋地区の住民にとって、漁業を支えてくれる神が宿る神聖な場所と同時に、生命を守る重要な場所であったことは、疑う余地はない。
天神社
天神社は天の山の頂上から少し下ったところにある小さな社。地元の人は「天のんさん」と呼んでいる。天のんさんを守っている(有)かね七ひもの店の黒木典子さん(73)に聞くと「天神社のご祭神は綿津見神で、菅原道真公ではないんです。尾末神社は菅原道真公が祭ってありますけど、天の山の天神社は尾末神社から分霊した神社でありません」という。
まぎらわしいもので、「天神社」と「天神さん」(菅原道真公を祭る天満宮)とは、聞いただけでは区別しにくいうえに、祭神もまったく異なるのだ。
門川町には江戸時代初めから中ごろにかけて、あちこちに数十もの天神社が誕生した。「門川町史」によれば、祭神の多くが天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、国之常立神(クニノトコタチノカミ)。この2柱の神は、いずれも宇宙に最初に現れた神とされる。
天児屋命(アメノコヤネノミコト=天岩戸の前で祝詞をあげた神、祝詞・祭事を司る)、太玉命(布刀玉命=フトダマノミコト、祭祀に関する神)を祭った天神社もいくつかある。。そのほかの天神社は別な神が祭られている。
共通するのは、いずれも天上はるか高天原におられる「天津神」ということになるが、天児屋命と太玉命はニニギノミコトに従って高天原から天下った神。天児屋命は全国の春日神社の主祭神になっている。
ようするに、天空の神を祭ったのが「天神社」というわけで、門川町には天神信仰が強く根付いていたようである。
天上神社
天の山の一番高い場所に位置しているのが「天上神社」。はじめは墓かと思って近くまで行くと、石柱に「天上神社」と彫り込んである。建てられたのは昭和9年(1934)11月1日と、かなり新しいが、古い伝説が残っている。
昭和58年(1983)に門川町老人クラブ連合会、門川町教委が発行「ふるさとの轍」の「平家の落人と刀の伝説」(尾末の北田チカさん=故人=の記述から抜粋)によると、昔、偉い平家の落人が門川まで逃れてきて「自分が死んだらこの刀を、自分と同じ場所に埋めてくれ」と言い残したという。名前は思い出せないが、村上○○左衛門だったとか。
ところが、刀を預かった人は埋めるのが惜しくて家宝にと持ち帰ったら、その家はまたたく間に潰れてしまったという。
北田さんの先祖は、阿波(徳島)から門川に移り住んで小原(栄町)に住み、そこから尾末まで網の仕事に通っていたという。しかし、家が焼けたので尾末に住むようになったそうだ。
何代かのち、家を新築することになり、母屋の垣根を掘っていると、人の頭ぐらいの丸いものが出てきたという。それをおばさんが蹴ったところ、急に足がたたなくなり、これは大変と、屋敷に墓を建てて葬ったそうだ。この墓が、平家の落人を祭ったものと思われる。
そのころから「何でも願い事が叶えられる」ということで、お参りにくる人がいたようである。
その後、母屋を建て替えることになり、墓をどこに移したらいいか尺間さんに伺ったところ、天の山に祭ることになったらしく、のちに区画整理が行われ、現在の場所に移された。
このように天上神社は、平家の落人伝説を残しているが、祭られているのは「天神さん」の菅原道真公といわれる。現在、近くの濱村家が守っている。
鳴子川の水神
門川町の尾末地区と加草地区との境を流れる鳴子川の下流、鳴子橋から100メートルほど上流の中州に水神が祭ってある。夜泣きする赤ん坊がいると、鳴子川の水神さんにザルで砂利を運び、奉納する風習がある。
昔、この川から毎晩、赤ん坊の泣く声が聞えてくるので、ある漁師がその声の方へ行ってみたが、どこから聞えてくるのか分からない。翌朝、村の人たちと石を積んで水神さんを祭ったところ、その夜から泣き声は聞えなくなったという。そこでこの川を「鳴子川」と呼ぶようになったということだ。
水神さんの多くは、弥都波能売神(罔象女神=ミツハノメノカミ)。農耕に関する水を司る神として全国いたるところに祭られている。水の神としてだけでなく、子供を守る神、子授けの神としても崇敬厚いことで知られる。
それにしても「泣く子」が「鳴子」の語源になったというのがおもしろい。鳴子橋の100メートルほど下流に架かる国道10号線の鳴子大橋の親柱には、伝説にもとづき、子供をモチーフにした像が立っている。
















