スピリチュアルスポットを求めて −行縢神社(むかばき)−
行縢神社と景行天皇日本武尊伝説
延岡市行縢町
延岡市には「神話の里」と呼ばれる高千穂町に勝るとも劣らぬほど多くの神話・伝説が残っている。その一つ、行縢神社と景行天皇・日本武尊の伝説に触れてみたい。
県北を巡幸した景行天皇
県北を巡幸した景行天皇は神武天皇から数えて12代目。紀元前13年から140年余も存命したといわれている。
天皇は、九州で勢力拡大してヤマト王権に従わない熊襲(くまそ)を征伐するため、西暦82年8月、周防(すおう=山口県)から筑紫(つくし=九州)に入 り、豊前、豊後を経て、11月日向に入った。現在の延岡、門川、日向一帯を歩き、高屋(現西都市高屋)に着いた。ここに6年間も滞在、その間に熊襲を平定 (へいてい=反乱などをしずめて秩序を回復すること)したとされる。
やがて天皇は日向高屋宮を出て、肥後、豊前を行幸(ぎょうこう=天皇が出かけること)、ヤマトを出発してから7年後の89年に帰郷している。これが、景行天皇の日向国に関する伝説。 |
「行縢山」と名付けた日本武尊
ところが、物語はこれだけで終わらない。今度は主役が親から子に移る。舞台はまたも日向。しかも延岡である。
景行天皇の九州巡幸によって平定されたはずの熊襲が、態勢を立て直して勢力を増し、再びヤマト王権に抵抗するようになった。
そこで、今度こそ熊襲の息の根を止めようと、天皇は息子の日本童男(ヤマトオグナ)を九州へ遣わせた。このとき16歳。日本童男は小碓命(オウスノミコト)ともいい、双子の弟で、兄は大碓命(オオウスノミコト)。
童男は、吾田(あがた=県、英多、延岡)の東海に上陸、熊襲が住んでいるという西にそびえる山の方へ向かった。着いたのは山の麓に近い野添という所で、ここに滞在して熊襲討伐の作戦を練り、機会をうかがった。
野添に落ち着き、目の前にそそり立つ山をじっくり眺めた童男は、山容が武士が狩や乗馬のときに使う毛皮の「行縢」(むかばき)にそっくりだったので、「行縢山」と名付けた。
また、行縢山の雄岳(831)と雌岳(809)との間のヘコミが矢筈(やはず=矢の尻の部分、掛け軸を掛ける先がU字型の道具)に似ていたのを見て、「矢筈の滝」(行縢の滝)と名付けたといわれる。この滝はまた、白布を垂らすように流れ落ちることから「布引の滝」とも呼ばれている。 |
少女に変装して熊襲を討つ
いよいよ宿敵熊襲の首領・川上梟帥(カワカミノタケル=カワカミタケル)を討つチャンスが訪れる。この日、カワカミタケルは屋敷の新築祝いで、熊襲一族を招き祝宴を開いていた。そこへ美少女に変装した童男が近づいた。
カワカミタケルは、童男を警戒することなく、こともあろうに隣に座らせた。そのうちカワカミタケルは酒に酔って寝込んでしまった。油断したのだ。
そのすきに童男は、隠し持っていた剣を取り出し、エイとばかりにカワカミタケルの胸に突き立てた。
カワカミタケルは死に際に「一つ聞きたいことがある。あなたは勇敢な人だ。名前を教えてくれ」と言った。
童男は「私は景行天皇の息子で、日本童男だ」と答えた。
するとカワカミタケルは「これからは、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と名乗るがよい」と言い残し、息絶えた。
「日本書紀」は日本武尊が討ったのはカワカミタケルになっているが、古事記は熊襲建(クマソタケル)とカワカミタケルの兄弟を討ったことになっている。 |


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勝利の舞いから「舞野」
日本武尊は古事記では倭建命(ヤマトタケルノミコト)。八幡神として知られる応神天皇の祖父にあたる。熊襲を平定した日本武尊は、ヤマトに凱旋するとすぐ、東国平定を命じられる。
それはともかく、ヤマト王権から見れば、王に従わない悪党の熊襲首領・カワカミタケルなのだが、童男の武勇を称え“敵ながらアッパレ”の人物評価をした熊襲も、またアッパレではないか。
野添滞在は、わずか7日間だったが、日本武尊が住んでいたことから、地元の人たちは「武宮」(たけみや)と呼ぶようになり、そこに武宮神社を建て、日本武尊を祭るようになった。明治になって武宮神社は、ほかの神社の神々を合祀、「下舞野神社」と改められた。
舞野の地名は、地元の人たちが日本武尊の勝利を祝って舞い(神楽)を舞ったことから名付けられたといわれる。神社境内には舞扇の形をした「扇塚」の石碑がある。
その下舞野神社の神楽歌に「布引の 矢筈の滝を 射てみれば カワカミタケル 落ちて流るる」という一節があり、日本武尊の作といわれている。
熊 襲は、鹿児島県、宮崎県の霧島地方に住んでいた部族というのが通説になっているが、前記の伝説からすれば、延岡にも住んでいたことになる。宮崎県では霧島 に近い都城市庄内町に行くと、延岡とほとんど同じ内容の日本武尊と熊襲の伝説があり、その伝説をもとにした「熊襲踊り」も伝わっている。
日本武尊と熊襲伝説の舞台となった行縢山は、延岡市街から車で20分ほどで麓まで行ける。
延岡市内から国道218号線を高千穂方面に10分ほど進み、平田町から行縢町へ通ずる道路に入る。舞野町新川の集落を過ぎて300メートルほど進むと、道路の右側の田んぼの中に下舞野神社がある。 |
絶景の行縢山
下舞野神社の4、500メートル先から見た名峰・行縢山の姿は美しく、文字通り「むかばき」の姿をなしている。ここから5分足らずで行縢神社入り口に着く。
途中、行縢川に架かる新・搭之瀬橋を渡る。この橋の少し下流に旧・搭之瀬橋がある。延岡では珍しい石造りのアーチ橋。現在は通行禁止になっている。
神社の少し手前の西側は「むかばき青少年自然の家」。東側には「ひでじビール醸造所」がある。ここの駐車場から見上げると、行縢山の男性的な断崖が天を突き、迫力満点。日本中探しても、こんな景色はそうザラにはない。
神社近くの道路は、竹や杉などが緑のトンネルをつくり、昼なお暗い。いかにも神々が鎮座する霊域といった雰囲気を醸し出している。この一帯には、巨岩がいくつも見られ、古代の巨石文化の遺跡とする人もいる。 |
鎮西八郎為朝も参拝
神社入り口から100メートルほど一直線に延びる参道の両側は、石燈籠と大きな杉木立が列をつくる。参道に敷かれた小砂利をサ クサクと踏みしめ、行縢川の沢に架かる石橋を渡って30数段の石段を上ると、社殿の前に正面を向いて鎮座したサルとも犬ともつかない奇妙な顔形の狛犬が迎 えてくれる。社殿に向かって右側には、根元は一つで途中から二つに分かれている樹齢300年の「夫婦杉」の巨樹が目を引く。
行縢神社は養老2年 (718)、紀州(和歌山県)の熊野大社から勧請(分霊)したといわれ、イザナギノミコト、イザナミノミコト、日本武尊を祭神としている。長寛2年 (1164)、鎮西八郎為朝(源為朝)が九州平定のとき、武運長久を祈願したという言い伝えも残る。神社入り口近くに、為朝が腰掛けたという平べったい石 がある。
神社の南側には、石塔が散在する別当大日寺の跡がある。別当寺とは、神仏習合が認められていた時代に、神社に付属していた寺。大日寺は戦 国時代末期に豊前の大友宗麟が延岡を攻めたとき、行縢神社とともに焼き討ちされた。行縢神社は再建されたが、大日寺は再建されず、廃寺となった。 |
豪華な造りの行縢神社
行縢神社の社殿は意外に大きく、立派だ。現在のものは昭和14、5年(1939、40)に建てられている。軒は弓の形をした 唐破風(からはふ)をなし、軒下に施されている彫刻や象鼻などの彫り物は見事。一見の価値がある。また、最初の延岡藩主だった高橋統種(元種)の娘が行縢 神社に寄進した「鉄鰐口」は、県指定文化財になっている。高橋氏以降も歴代藩主の崇敬が厚く、社殿は大切に守られてきた。
このように、行縢神社が鎮座する行縢山は古くから霊山として崇(あが)められ、一時は修験者(山伏)たちの修行の場でもあった。
神社入り口は同時に行縢山の登山口にもなっており、ここから行縢の滝を経由して山頂までは2時間半ほどで行ける。山頂からは東に延岡市街、日向灘、西は九州山地の山々が幾重にも重なって見える。
行縢山は「祖母傾国定公園」の南端に位置している。ほとんど手つかずの豊富な自然が残っており、クマタカ、ヒヨドリ、フクロウ、オオルリ、ヤマドリなどの野鳥も数多く確認されている。
行縢神社や行縢山は、伝説と自然の魅力あふれる場所なのである。
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行縢神社 素晴らしいい伝えがあるのですね。 伝説と自然の魅力にあふれる場所でしたか・・・。またまた 勉強になりました。有難う御座います。
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友人と二人、滝下の河原で野宿した夜の
満点の星と、蛙の鳴き声、そして友人の歌声が思い出されます。
それは来る途中の延岡で、毛布や飯ごうを抱えて観た
石原裕次郎と浅丘ルリ子主演の日活映画「世界を賭ける恋」の主題歌でした。
あれは昭和34年、高校1年の夏のことでした。