県北よもやま歴史#007
「鎖国」の最中、オランダへ密航した延岡人
「鎖国」政策がとられていた江戸時代、密かにオランダへ渡った延岡人がいました。名は満石禎三郎(みついしさださぶろう)。人呼んで「オランダ 貞」(禎)。
禎三郎は天保3年(1832)、港町として栄えていた大武(現延岡市大武町)の商家(酢屋)に生まれました。幼名は治助。当時の日本は、オランダ、中国 (清)など限られた国としか交流がなく、海外渡航も禁じられていました。そんな時代に、いつかはオランダへ行って勉強したいと思っていました。
嘉永元年(1848)17歳のとき、ついに延岡を抜け出して長崎に行きます。ここでオランダの商人・ゼーモウスに接近、彼は禁を犯してまで海外へ出ようと する禎三郎の勇気と熱意に心を動かされ、オランダヘ連れて行くことにしました。
オランダに入国した禎三郎は学校に通い、航海術や造船、機関技術を学んだほか、ヨーロッパ各地を巡って色々な知識を身につけました。
嘉永6年(1853)ゼーモウスとともに日本へ戻りましたが、間もなくゼーモウスが死去したため、禎三郎は延岡に帰ってきました。父親・幸蔵は喜ぶどころ か、カンカンに怒って、藩の役人に知れたら大変と、家に閉じ込めてしまいました。
実家での生活ぶりは「オランダ式」であり、「満石方ん禎やんのやるこつは、何でんかんでんオランダ式げな」というウワサが広がり、人々はいつしか「オラン ダ貞」と呼ぶようになりました。
2年ほど実家ですごし、安政2年(1855)再び延岡を出て今度は江戸へ行き、オランダが幕府に贈った「観光丸」(353トン=日本初の蒸気船、ハウステ ンボスに復元船)の乗組員になります。
ところが、あまりにも操船が上手なため、オランダへ渡ったのがバレそうになり、観光丸の仕事をやめて、函館に渡りました。ここで、伊予(愛媛)出身の奇 才・武田斐三郎(あやさぶろう=五稜郭の設計者)と知り合い、世話になります。
そのころ、帆船・箱館丸(56トン)、亀田丸(46トン)の建造に携わっています。文久元年(1861)4月には、斐三郎とともに亀田丸に乗って、シベリ ア(ロシア)のニコライエフスクで貿易したり、地理や風俗調査をしました。後にカムチャツカ方面でも貿易をしています。
| 明治元年(1868)の戊辰戦争のとき、軍艦を率いて函館にきた榎本武揚(えのもとたけあき)の幕府軍に付きますが、幕府軍は官軍に圧倒されて降伏します。しかし、貞は秀でた航海術が見込まれ、官軍の軍艦「丁卯」(ていぼう=236トン)の艦長として登用されています。まさに「芸は身を助く」です。ただ、貞が艦長を務めたのは「第一丁卯」か「第二丁卯」かは不明です。 貞は日本郵船の前身「日本国郵便蒸気船会社」所有の「猶龍丸」(ゆうりょうまる)の船長にもなっています。猶龍丸は、旧伊達藩(宮城県)出身の北海道開拓者(屯田兵)の輸送などをした船です。 こうして貞は、黎明(れいめい)期の日本の造船・海運・貿易の道を切り開き、明治26年(1893)、61歳で世を去りました。延岡という小さな町の少年が、大きな志を抱いてオランダに渡り、そこで学んだ技術を生かし、海洋国日本の発展に尽くした功績は、賞賛に値します。 八面六臂(ろっぴ)の活躍をした貞ですが、それを詳細に記した文献は、残っていません。というのは、密航者だったこともあって、明治になるまで本名や海外渡航の事実を隠したからだと思われます。 「オランダ貞」の子孫にあたる人は、今も延岡に住んでおられます。しかし、貞に関する文書や遺品がないのが残念です。もう一つ残念なのは、貞を顕彰する碑や行事もないことです。 |














