「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(100)土々呂港①
明治・大正時代の土々呂港は、漁港と商業港の二つの顔を持っていた。今でもそれは変わらないが、明治・大正時代にはあった関西からの定期航路は、今はない。鉄道(日豊本線)が開通する以前、この定期航路は宮崎県と大分、四国、関西を結ぶ重要な交通機関だった。小嶋さんは、土々呂港の思い出を、次のようにつづっている。
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紺屋町の人力車が来て、筆者は、父に抱かれて車に乗り、上から毛布をかぶせてもらった。5歳のある日であった。初めて、両親の郷里の大分県に帰った時の、淡(あわ)い記憶である。もちろん、汽車もバスもなかった。土々呂港から汽船に乗るのである。出港は午後10時――。
延岡の明治30年(1897)、どこの家も戸をとざした時刻。街灯も軒灯もなく、低い家なみが、ひっそりと闇の底に静まっていた。灯(あかり)といえば人力車の横につけた細長い提灯(ちょうちん)の蝋燭(ろうそく)の灯一つ。車の動きにつれて、とぼとぼとしていた。
「猫の子一匹おらぬ」という形容言葉があるが、平原から伊形の松並木を通るときに、闇の中を小さい猫が、左から右へ足早やに道を横ぎった。車の上から「猫が――」といったのをおぼえている。
土々呂の桟橋通りだったろうと思う。道の左側の待合所で汽船が港にはいるのを待つ。狭い階段をあがった。二階の狭い室に、4―5人の客がいた。
やがて、腹にこたえるような低音で汽笛が鳴ると宿の番頭が梯子段の口から顔を出して、「船が着きました。どうぞ」といった。
月が――あったやら、なかったやら。艀(はしけ)に乗るとき、足もとが明るかった記憶は、月の光だったのか、番頭の提灯の灯りだったのか。薄暗い船内の蚕棚(かいこだな)みたいなような所に上がって寝た。父が「夜が明けたら、臼杵(うすき)じゃ」といった。
(原文のまま)
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明治時代、土々呂には関西からの定期航路があった。大阪―神戸―三津浜(松山)―別府―臼杵―佐伯―土々呂―細島―油津などを結んでいた。鉄道が開通するまでは、関西方面へ向かう唯一の交通手段だった。歌人・若山牧水も細島からこの船に乗り、大阪経由で東京に向かった。
(この項つづく)















