「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(99)笹目橋
旧恒富村と旧伊福形(いふくがた、いがた=伊形)村との境界は沖田川だった。その沖田川の旧国道に架かる橋が「笹目橋」である。長さ100㍍ほどの橋で、戦後しばらくは木造、路上は砂利道という粗末な状態が続いた。現在は立派な永久橋だが、日豊本線沿いに国道(10号線)が移ったため、今は県道になっている。小嶋さんは、笹目橋の思い出を次のように書いている。
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明治時代の小学校では、遠足という行事はあったが、現在のようにバスや汽車を利用するという遠距離遠足はなく、延岡小学校及びその周辺の学校は、せいぜい、長浜海岸が多く、四年間の尋常科では、城山、今山、愛宕山あたりへの遠足が年に一度ぐらいであった。
それに笹目橋を渡って、土々呂まで行った遠足の記憶がある。伊達(だて)や平原(ひらばる)の松並木道を、てくてく歩き、笹目橋という、この界隈(かいわい)では、類のない橋を渡って、さらに伊福形(いふくがた)あたりの長道を歩いて、土々呂まで行ったのだから、印象に残っているのも、当然かも知れない。
笹目橋、昔は小雨橋、橋から眺めると、目の限りは、草原だったらしい原野を小雨潟(ささめがた)といったと思う。西の高地から流れてきた沖田川は、うねうねと右に左に曲っていたろう。明治時代にもやはり、岸の線の不明瞭な、そして不規則な形に、蘆や茅が生え繁っていた。
この小雨瀉で、延岡の土持氏と、児湯郡都於郡(とのごおり)城主、伊東氏が合戦を交えたのが、明応5年(1496)5月12日、結果は伊東方の敗戦だったと郷土史にあるが、負けた理由は、「行縢山から岩石がおびただしく飛んで来たため」となっている。土持方のために、一種の「神風」が吹いたわけか。今から480年の昔の話である。
しかし筆者は考える。小雨潟一帯は、いまも強い北風が吹く。行縢颪、である。そのためかどうか知らぬが、小雨潟はある時代、塩田で、相当の塩を生産した歴史がある。土持、伊東の合戦の日に吹いた風は、特に強風ではあったが、「岩石が飛来した」のではなかったのではないか。延岡の製塩業は浜地区に始まり、平原に伸び、そして小雨潟に及んだという記録もあるのは、参考にならないであろうか。識者の意見も聞きたいものである。
(原文を一部修正)
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文章にある「小雨潟」(塩浜)は現在、水田や畑になっている。明治末期の地図を見ると、この付近は砂地になており、小嶋さんが書いているように、塩田だったことを裏付けている。
笹目橋の片方の親柱には「塩田の風景」と題したレリーフが取り付けてあり、これも付近一帯が塩田だったことを裏付けている。塩浜の塩田は明治43年まで続いた。戦後、一部が緑ケ丘競馬場の代替地になったが、ここでの競馬は一度も行われることなく現在に至っている。
また、笹目橋のもう片方の親柱は「ハマボウ」の花のレリーフになっている。ハマボウの群落は、沖田川の河口から上流約2.5キロ間に見られる。














