「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(98)夏井の浜
沖田川と浜川の河口に位置するのが「夏井の浜」。今は「沖田川河口」と呼ばれる。ここは、延岡市内を抜ける国道10号線から、日向灘を直接見ることができる貴重な場所であり、眺めがいい。
北は旭化成の巨大煙突と市街が見え、宮崎方面からここにくると、なんとなく延岡に入ってきた気分になる。小嶋さんは、沖田川河口の思い出を、次のようにつづっている。
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日豊線の下り列車が南延岡駅を出て10分ほど走ると、左の窓から見える外の風景が、にわかに都会ばなれして、襖(ふすま)か屏風(びょうぶ)に描いたような景色にかわる。
もしバスならば、南延岡駅前を出て、南へ5分ぐらいか。ここが「夏井の浜」である。愛宕山(あたごやま)の北麓を流れてくる浜川(はまがわ)の水と、南の田ん甫つづきの平野を流れてくる沖田川(おきたがわ)が、ここで合流して、さながら一つの湖となる。
明治・大正の夏井の浜は、むしろ幽邃(ゆうすい)という感じであった。大正・昭和と、延岡が町から市に発展し、工都となり、交通が頻繁(ひんぱん)になってくるに従って、夏井の浜は、小ぎれいになり、あちこちに家が建ち、洋装の男女がふえてきて、様相が変ってきた。
風景は明るくなった。その代り、奥ゆかしさはなくなった。
浜の水が沖へそそぐ川口あたり、北からの砂浜と、南からの砂浜とが潮の加減で、つづいたり切れたりする様子を見ていると、全く突飛(とっぴ)な連想だが、東海道線の浜名湖の地形が頭に浮ぶのである。
もっとも、砂地では列車やバスは走らず、タクシーやトラックはなおさらのこと。その代り、麦わら帽子の子供や青年たちの、パンツ一つの姿や、釣り竿や投げ網を持った風流人が、浅い水の中を、じゃぶじゃぶ通って行くだけだが、左側にせまる「緑が丘」の屋根の密集と、右側の松原に見えかくれする「旭が丘」の家並と、西側の夏井の町で囲む湖水まがいの「夏井の浜」は、どうしても「ミニ浜名湖」であった。
ただし南延岡――平原――夏井の浜――沖田川川口――伊形とつづいていた松並木の、東海道五十三次の絵そっくりだった景観は、終戦のあと、片っ端、消えては行ったが――。(原文のまま)
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沖田川の河口は、明治・大正時代の風情は薄らいだかもしれないが、今でも絶景の地である。特にここから眺める朝日は、素晴らしい。小嶋さんは、そうした光景を浜名湖にたとえているが、言われてみれば、たしかに「ミニ浜名湖」である。浜名湖と遠州灘の境目にある弁天島あたりの風景に、どことなく似ている。
江戸時代から明治時代(明治43年まで生産)にかけて、浜川や沖田川沿いには塩田が広がっていた。有馬藩時代に播州赤穂から製塩技術者を招き、瀬戸内地方で盛んに行われていた「入り浜式塩田」による塩づくりが行われた。塩浜町の名はここから出た。
大潮のとき沖田川河口から入ってきた海水は、浜川・沖田川沿いに広がる塩田を浸(ひた)していく。小潮を待って海水がしみ込んだ砂をかき集め、「穴スメ」と呼ばれる土でつくった大きな舛(ます)で濾(こ)した濃い海水を煮詰めていく方法。延岡藩の財源の一つになっていた。
延岡の塩田は、浜川・沖田川河口という絶好の海水導入口があったのと、梅雨や台風などでの雨量は多いが、半面「晴天率」全国一と、瀬戸内地方を上回る天気の良さが、製塩業を容易にした。














