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2010年4月13日
「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(97)出北渡し

e587bae58c97e6b8a1e38197 街中を流れる川に橋があるのは当たり前。しかし、明治・大正時代の延岡には大瀬川に大瀬橋、五ケ瀬川に板田橋、祝子川には祝子橋しかなかった。あとは洪水時に水没する潜水橋(沈み橋)か、渡し船だった。その一つが「出北渡し」。小嶋さんは、その思い出を次のように書いている。

 

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 延岡には川が多い。「水郷延岡」の愛称をほしいままにしているゆえんである。川が多ければ、従って橋が多く、渡し場も多い。それぞれに、「水郷延岡」の情趣を深めてくれる風物、風情である。

 

 絵は出北(いできた)渡し。大瀬川の大瀬橋下流で、新町と出北の間を往復する渡し船の、ゆらりゆらりと水上をすべる趣き、黙々(もくもく)と水棹(みざお)を使い、櫓を漕いでいる船頭の姿が、橋の上からも眺められた。

 

 渡し守のおじさんは、喜多おじやんという人であった。渡し守稼業何十年、雨にも風にも、暑さにも寒さにも、平然たる顔で渡してくれた。柳沢町、新町の人はいうまでもなく、南町、中町、船倉の人々まで、船に乗る人は心安く、「喜多おじさん、おはよう」「日和(ひより)は、昼まじゃ大丈夫か知らん」などと声をかけた。

 

 明治・大正の川の水は、五か瀬川、大瀬川に限らず、みな水量が多く、きれいに澄んでいた。岸に出てきて、顔を洗ったり、野菜を洗ったりも普通で、渡し船ででも、舷(ふなべり)から手をつけて、じゃぶじゃぶいわせたり、手拭やハンケチで顔を拭いたり、それがまた楽しくてたまらぬという風であった。

 

春日町の堤防から見た安賀多橋南詰付近。このあたりに出北渡しがあった。現在、安賀多橋は架け替え工事が急ピッチで進む

春日町の堤防から見た安賀多橋南詰付近。このあたりに出北渡しがあった。現在、安賀多橋は架け替え工事が急ピッチで進む

 明治・大正時代には、大瀬川に大瀬橋は架かっていたけれども、橋というのはそれだけだったから、市内から三つ瀬・惣領・浜砂に用のある人は、いちいち大瀬橋まで遠まわりしなければならなかった。特に、三つ瀬の和合寺の墓地にお墓のある人の墓まいりには――。

 

 筆者たちは、中学生で、浜砂の艇庫までボート練習に行った時は、大瀬橋に廻らずに、この渡し船から帰った。もう日暮れ近くで、西の山に入りかけた夕日が美しかった。

 

 〇明治老人の風格――。

 

 ・喜多おじやん――出北の人。出北渡しの船頭さん20年、だまりこくって櫓をおすが、船に乗る人の荷物を積んだりおろしたり、親切でもあった。行儀のわるい子供たちは遠慮なしにおごられた。

(原文を一部修正)

 

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 出北渡しは、安賀多橋の北詰から約10㍍上流にあった。大正末期の延岡市街地図を見ると、出北渡しの地図記号が確認できる。このころの大瀬川は現在の川幅より狭く、船乗り場があった場所は川の中になってしまった。

 

 安賀多橋は昭和10年(1935)5月着工、12年(1937)7月27日に完成している。工費は41万5090円。この橋の完成によって、出北渡しは消えた。

 

 橋名の「あがた」は、延岡の古名「県」(あがた=英多)にちなむ。安賀多の名が付いた地名は安賀多町、安賀多神社(古川町)がある。現在、安賀多橋は架け替え工事の最中で、仮り橋が架けられている。

 

 延岡市は川が多いこともあって、橋が少ない時代は「渡し」があちこちにあった。また、橋が洪水で流されると、一時的に渡しが設けられることもあった。延岡市内で今も残っているのは「鹿越渡し」だけになった。
 





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