「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(95)アイヌ遺跡
愛宕山の北麓、延岡警察署の正面に小さな洞穴がある。小嶋さんは、タイトルに「アイヌ遺跡」と書いている。遺物から縄文時代の遺跡であることはハッキリしているが、アイヌの遺跡という証拠はない。ただ当時の人たちは、そう呼んでいた。以下に紹介する小嶋さんの文にも、アイヌという表記は見あたらない。
アイヌは日本に古くから居住していた人々(一縄文人)で、日本列島の北部(東北、北海道)を主たる生活圏としていた。今も北海道で生活している人が多い。
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旭化成工業株式会社が、延岡で操業を始めて間もなくのころ、愛宕山の麓の土を掘って、敷地の埋め立てに運んでいると、思わぬところで一つの「岩窟」を掘りあてた。
そこを鳥居龍蔵博士が内藤家の招きで延岡に見えたときに見てもらった。大正15年(1926)10月である。
岩窟は愛宕山北麓の、道路から数㍍の所にあり、洞口は(多分、工事のために)破壊されていたが、発見時の高さ8尺1寸、奥行6尺1寸と記録されており、洞内には、獣骨、魚骨、貝類が充満しており、人骨も5体残っていた。
なお、その時、見学していた人の話では、洞内の床に数個の細長く、円みのある石が、数個発見されたのを、鳥居博士は「古代人がここで魚を釣るのに用いた錘(おもり)である」と説明し、また、数個の平たく円味のある、やや大きな石については、「これは古代人が寝るときに、枕(まくら)にしたものである」と説明せられたという。
その外、博士は、愛宕山の北麓の田に埋まっていた古代の舟を発見し、樟(くす)の木の枝や葉が土に交じって出て来たことを報告し、大貫町その他に、古代の貝殻が散在しているのを発見し、「北川・祝子川・五か瀬川・大瀬川などを含む地域は、太古には海からの入湾だった」と推定せられ、それの発掘作業が予定通り終わったあと、博士は延岡図書館ホールで、市民一般に研究結果の報告もせられた。
筆者は、数年前、広島市の郷土史料展示室で、「古代広島」の模型を扁額にして掲げているのを見たが、その式のものを、延岡でも作ってもらいたいと思う。
愛宕山の岩窟発見について、「今回、延岡附近で発掘した古墳の盛土の中に、吾人祖先の石器や土器の破片の混入している事実を発見したが、これは、古墳築造の当時既に、吾人祖先の先史時代の遺跡が、確に当時遺跡として存在しておって、古墳築造の原始時代以前に、すでに先史時代のあったことを暗示するものである」と、説明する鳥居博士の話を聞いて、それを、何時でも郷土の人々が「眼」で見ることが出来るために、模型が是非、必要だと思っている。
(原文のまま)
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愛宕遺跡の所在地は、愛宕町3丁目。小字(こあざ)名は「瀬戸石」(せといし)。「宮崎県指定延岡古墳群第5号」と命名されているが、出土品などは古墳時代よりはるかに古い縄文時代のもの。魚介類の殻や骨のほかに、数人分の墓や人骨も見つかっている。その様子から「愛宕貝塚」と呼ぶ人もいる。
小嶋さんも書いているように、縄文時代の一時期、愛宕洞穴のすぐ前は海であり、愛宕山は日向灘に突き出した岬になっていたことは、疑う余地はない。愛宕山のことを、古くは「笠沙(かささ)岬」とか「笠沙山」というが、根拠のない地名ではないわけだ。
現在、愛宕洞穴の現場は急傾斜のため、ネットフェンスで囲ってあり、洞穴のそばに近づくことはできない。洞穴のすぐ前は、広い都市街路の愛宕通線。その道路を渡ったところが延岡警察署。洞穴に向かって左側(東側)には、延岡地方に伝わる民話でおなじみの「柞ケ谷 太郎兵衛狐記念碑」がある。
延岡市民の中には「ゆすがたに」(柞ケ谷=柚子ケ谷)を「いすがたに」、「たろべえぎつね」(太郎兵衛狐)の「たろべえ」を「たろぜ」という人もいる。柞ケ谷は、愛宕山北斜面の深く切り込んだ谷で、明治・大正時代は、今のように谷前面に家はなかった。
キツネが主人公になっている民話としては、県内でも最も面白い民話の一つ。村の青年が太郎兵衛狐にだまされて、馬の尻をのぞき込んでいた話や、徳川家の行列に化けた太郎兵衛狐に、延岡藩主の内藤さんの大名行列が路肩によける話などが残っている。














