「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(94)丸か島
「丸か島」は、延岡市の長浜海岸沿いの東浜砂町から長浜町一帯の古い地名で、明治末期の地図には「丸賀島」や「丸ケ島」などと記されている。現在でも、長浜町のことを「丸か島」と呼ぶ人がいる。
丸か島のすぐ北側は毛無し浜(切れ港)があり、その北側に方財町(島)がある。昭和42年(1967)5月に鷺島橋が開通するまでは、長浜町と方財町を結ぶ重要な交通路だった。丸か島の西側は出北の水田が広がっている。南側は旭化成の長浜工場(レオナ、雷管工場など)が立地している。小嶋さんは、丸か島の思い出を次ぎのように書いている。
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「丸か島」は恒富の海岸、方財島の南につづく海岸地区である。筆者たちの小学校時代には、年に二度か三度、長浜遠足というのがあって、受持の先生が連れて、丸か島の海岸に行った。そこが「長浜」で、方財島から伊形まで続いて、松林が繁っていた。
延岡小学校の子供は、まず学校の運動場に、学年別に整列し、先生の訓辞や注意があって校門を出発し、大瀬橋―川原町―惣領―浜砂の道を、次第に東へ進むと、浜砂を出たところで、向うに一本松の高いのが見えた。その松の木を中心に、絵を描いてみた。
延岡小のみならず、岡富小、恒富小、あるいは南方小あたりまでの学校は、みな、長浜遠足をしたのではなかろうか。
途中は、「秋空晴れて日は高し、今こそわれらが散歩どき、すすきは野辺にまねくなり、小鳥は野辺にうたうなり」(散歩唱歌)などを歌いながら、このあたりに来ると、俄かに歌いやめて「おうい。一本松が見えたぞう」とおらんだりしたものであった。
一本松の下に小さいお茶屋があった。お菓子やラムネがあったようだが、小学生は誰も買わなかった。
松原を抜けて海岸に出る。先生の「止まれ、―別れ―の号令で、どの学級も一せいに波打ち際向けて走り出した。上級生の先生が砂に直線や曲線を引きながら「この海の向うはアメリカです。それが、どうして見えないかというと、地球は――」などと説明していた。
遠くの水平線を、黒い蒸気船が通って行くのを、じっと眺めたりした。
明治のそのころ、遠足といったら、殆んど丸か島だった。即ち長浜だった。恒富小学校の高等科が別府(大分県)に行ったとか、女学校が日平銅山(宮崎県北方町)に行ったとかは、大きく世間の話題になった。筆者は中学4年の時、5年生と一しょに、関西旅行をした。これは破天荒の計画であったと聞いた。
(原文のまま)
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文中の「宮崎県北方町」は、平成18年(2006)2月20日、延岡市に編入され、現在は「宮崎県延岡市北方町」になっている。
小嶋さんが書いているように、長浜海岸は延岡市内の各学校にとって、格好の遠足地だった。どの学校も、少なくとも年1回は長浜遠足に行った。浜で遊び、松林の中で弁当を食べた記憶のある人は多いと思う。それは今も変わらない。
ところが、昭和40年代後半からマツクイムシの被害が目立ちはじめ、長浜海岸の松はほぼ全滅、約60ヘクタールの松の“密林”がスカスカになってしまった。江戸時代の屏風絵や絵図にも描かれるなど、何百年も長浜を守ってきた松林が、わずが20年余りで消えたのである。
現在、宮崎北部森林管理署や県東臼杵農林振興局、民間団体、地区住民らが、マツクイムシに強い「抵抗松」や広葉樹の植林、その維持管理を行っている。しかし、元の姿に戻るには、かなり時間がかかりそうだ。














