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「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(93)馬市=番外編③=
By 0982.TV On 13 3月, 2010 At 11:12 AM | Categorized As 延岡市, 延岡百景, 新着ニュース, 県北百景 | With 0 Comments

umaichi2 昭和5年(1930)新たな競馬法ができ、競馬場のコースは一周1000㍍、コース幅は16㍍必要となり、条件を満たさない三ツ瀬競馬場では開催できなくなった。そこで東臼杵郡畜産組合や関係町村は移転先を探すことにした。

 

 

 ところが、昭和5年に延岡町、岡富村、恒富村が合併して新・延岡町ができ、昭和8年(1933)には新・延岡町が延岡市になり、それに伴う市会議員選挙や市長選任など、あわただしい日々が続き、新しい競馬場候補地の選定に時間がかかった。(当時は市議会を市会といい、市長は市会が選んでいた。公選制になったのは戦後のこと)

 

 

 ようやく昭和9年、緑ケ丘の現在の緑ケ丘小学校と、聖心ウルスラ学園高校の位置に移転が決まり、三ツ瀬競馬場の跡地は、旭ベンベルグ絹糸(旭化成の前身)に売却することになった。

 

 

上空から見た緑ケ丘競馬場跡(右下の楕円形)と塩浜の競馬場用地(左上の楕円形)=昭和34年1月24日撮影・延岡市都市計画課提供

上空から見た緑ケ丘競馬場跡(右下の楕円形)と塩浜の競馬場用地(左上の楕円形)=昭和34年1月24日撮影・延岡市都市計画課提供

 こうしてオープンした緑ケ丘競馬場だったが、昭和14年(1939)に廃止に追い込まれた。軍馬資源保護法が施行されたためで、これ以降、日本は戦争へと突き進んで行くことになる。

 

 

 昭和10年(1935)春の緑ケ丘競馬(2月8、9、10日開催)の記録をみると、1日に12レース行われ、初日の売り上げは6510円あった。2日目7413円、最終3日目9561円、3日間合計は2万3484円と、現在の貨幣価値で4000万円ほどの売り上げをみせた。競馬は非常に人気のあるレジャーだったようだ。

 

 

 レース距離は、1600㍍から3200㍍。馬が入賞すると、馬主には賞金が出るとあって、馬券を買い求める観客だけでなく、馬主もエキサイトしたようである。ちなみに初日の配当最高額は第5レースと第7レースの8円20銭。2日目は第8レースの10円、3日目は第5レースの3円20銭だった。

 

 

 元延岡市助役(副市長)だった松山町の黒木道男さん(故人)は、自宅で飼育していた馬をレースに出場させ「3等に入賞して賞金をもらったのが忘れられない」と話してくれたことがある。

 

 

競馬場跡に開校した緑ケ丘小(正面左)

競馬場跡に開校した緑ケ丘小(正面左)

 しかし、戦後は延岡市内での公式な競馬会は開かれないまま、緑ケ丘競馬場の大部分は、昭和30年(1955)に開校した緑ケ丘学園高校と、33年に開校した緑ケ丘小学校の敷地になってしまった。このため、競馬場用地を新たに塩浜町の南西側に確保したが、ここも使用されないまま、現在は畑などに利用されている。上空から見ると、競馬場の楕(だ)円形コースが水田の一部に残っているのがわかる。

 

 

 ただ、延岡市は昭和25年(1950)に地方競馬開催許可(延岡市営競馬)を得て、同年11月30日から12月5日まで、宮崎市の花ケ島競馬場(現JRA宮崎育成牧場)で開催(期間のうち4日間)している。売り上げは355万1500円で、10万317円の黒字を出した。ちなみに同年度の一般会計予算は約2億8000万円。競馬の収益金はこの中に繰り入れられた。

 

 

 戦後第2回の競馬会は、やはり花ケ島競馬場を借りて、翌26年9月27日から10月1日までのうち4日間開催したものの、その後は開催されなかった。

 

 

 余談だが、中央競馬で活躍し、昭和42年(1967)の「天皇賞」(秋)と「有馬記念」で優勝した名馬「カブトシロー」は、日本軽種馬協会の好意により、功労馬として延岡で余生をおくった。

 

 4、50年前までは、あたり前のように馬(多くは農耕馬)を見かけたが、今、県北で馬を見かけることはほとんどない。延岡市だと、鷺島の「延岡乗馬クラブ」で見られる程度になってしまった。

(この項おわり)
 

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