「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(93)馬 市=番外編②=
明治・大正の競馬は、法によって「馬券」発売が禁止されていた。というのは、競馬にのめり込んで、身を持ち崩す人がたくさん出たからである。
しかし、地方の競馬では法の網目をかいくぐるようにして「勝馬投票」と称し「券」を発行していた。実際には馬券と同じで、もちろん配当もあった。現在では、勝馬投票券のことを一般に馬券と呼んでいる。
大正12年(1923)競馬法が制定され、馬券発売が認められた。そのキッカケをつくったのは、日本競馬会(中央競馬会の前身)公認の宮崎競馬場(花ケ島競馬場)だったらしい。馬券発売が禁止されていたため、入場券に勝馬投票用紙をつけて売り出し、的中者は商品券がもらえる仕組みを考え出した。商品券は場外で現金化できた。これが全国の競馬場に波及し、ついに馬券発売が法律で認められることになったということだ。
大正末期から昭和初めころの三ツ瀬競馬場入場券は1円、馬券も1円、配当は最高限度額10円。今のように多種の連勝式はなく、単勝のみだった。同時期の宮崎競馬場も単勝のみの馬券だったが、法によって1枚なんと20円、配当最高額は200円になっていた。昭和初期の1円は現在の2000円ほどの価値があり、競馬は高いレジャーだった。
いら この時代、こうした競馬を支えていたのは、優秀な競争馬だった。特に延岡産馬の中には、皇室の財産ともいうべき御料馬の血を引く馬がたくさんいたことは注目される。馬市でセリにかけられ、「H」の焼印を捺(お)して県外にも送られた。その記念碑が惣領町にある。
平龍号の導入によって、文字通り毛並みのいい馬が続々と誕生した。それにしても、馬の功績を称揚して記念碑まで建てたほどだから、当時の関係者の喜びが、いかに大きかったかがわかる。
「平龍号記念碑」が建ったのは、明治41年(1908)5月。碑文のあとには小林乾一郎(けんいちろう)、山口若三郎、獣医師の草野富治、吉田只治、津田嘉次郎の各氏ほか、組合員数十人が名を連ねている。
小林乾一郎氏は旧延岡藩主・内藤家の家令で、旧制延岡中学校の前身・亮天社の英語教師。内藤政擧(まさたか)公を助けて、旧制延岡高等女学校の前身・女児教舎を設立に努力した。県会議員、国会議員も務めた。
平龍号記念碑は、旧山口邸と惣領町公民館との間の緑地帯に、楠(くす)の巨木に挟まれるようにして建っている。山口家は戦後の農地改革前の大地主で、一時は豪商の谷家や小田家、大地主の山本家、三宅家などとともに、東臼杵郡内でもトップクラスの高額納税者だった。当主は神奈川県に在住しているため、屋敷は近くの人が管理している。旧山口邸は今も大きな屋敷だが、出北土地区画整理(昭和45年認可)が始まる前は、今よりはるかに広い敷地だった。
(この項つづく)














