「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(93)馬 市=番外編①=
戦前、延岡は競馬の盛んな町だった。いつごろから始まったのか正確な記録は残っていないが、明治中ごろには川原崎(現在の昭和町の一部も、当時は川原崎だった)の五ケ瀬川沿いに、200㍍ほどの直線コースがあったという。
競馬らしい競馬は、現在の旭化成ベンベルググラウンド北側、大瀬川の旭化成取水場付近にあった「三ツ瀬競馬場」が開設されてからである。これも、いつ開設されたか正確な記録はなく、明治40年(1907)ごろしかわかっていない。
三ツ瀬というと、春日町と永池町に挟まれた三ツ瀬町のことを思い浮かべる人が多いハズ。その三ツ瀬町は、昭和32年(1957)までは「東新小路」という町名であり、春日町が「北三ツ瀬」と「南三ツ瀬」と呼ばれていた。塩浜町に移転した三ツ瀬木材は、元はこの南三ツ瀬にあった。
また、旭町の方平(ほうびら)公園(和合寺跡)や旭化成延岡支社(旭サービス恒富本店=恒富供給所)付近は「東三ツ瀬」だった。どういうわけか「西三ツ瀬」はなかった。いずれにしても三ツ瀬は、新小路とともに恒富地区北部を二分する広い地域だった。
明治・大正時代、今の旭化成取水場あたりから須崎橋、中島町付近にかけては、大瀬川に沿って松林になっており、競馬コースはその松林の中にあった。
初めのころは300㍍ほどの直線コースしかなく、駆け出した馬がゴールしても、勢い余ってコースから飛び出してしまうこともしばしばあったという。そんなとき馬主など関係者は「切れたゾー」と、大声で危険を知らせていたそうだ。のんびりした時代である。
三ツ瀬競馬場が本格的な円周コースになったのは、大正6年(1917)のこと。1周1000㍍にも満たない小さなコースだったが、レースは十分できたようだ。当時の地図を見ると、ちょうど今のベンベルググラウンドほどの広さだったようである。競馬会(レース)は東臼杵郡畜産組合の主催で、毎年春と秋の2回開催していた。
まだ旭化成の工場や寄宿舎、安賀多橋、須崎橋もなく、競馬場の周辺は水田が広がっていた。今の春日町東側、安賀多町一帯も水田になっていて、さびしいところだった。三ツ瀬競馬場は恒富村の区域に入っていたが、競馬場のすぐ東側の惣領などは岡富村の区域だった。
(この項つづく)














