わずか3、40前まで馬や牛が田畑を耕す姿が、日本中どこでもごく普通に見られた。中でも牛は、ほとんどの農家が飼っていた。しかし、耕運機やトラクターが普及すると、特に農耕馬は激減した。現在、延岡市で農耕馬を飼っている農家はほとんどない。軽種馬(サラブレッドやアラブ馬など)も、鷺島(さぎじま)の延岡乗馬クラブ以外では、まず見かけることはない。
牛も農業従事者の高齢化や若者の農業離れなどで、飼育農家は以前より減ったが、和牛は大切な収入源だけに、馬のような減り方はしないものと思われる。小嶋さんは、明治・大正時代の馬市の思い出を次のように書いている。
* * * *
馬市や牛市は、もと岡富村、南方村、東海村など、至るところで催されたが、恒富村の場合は、いつでも三つ瀬川原が会場であった。大瀬川の南岸、大瀬橋の下流の川原で、会場は、周囲に、松の木がまばらに生えていた。
市(いち)の当日、馬主が自分の馬か牛をつれて、会場の中央に出てくる。専門のせり方が立って、「何百円」とか、「何千円」とか、その値段をいうと、買おうと思うものが片手をあげる。「買う」という合図である。呼び値が少しづつ高くなる。それに従って、上がる手が少なくなる。最後まで手を上げた人に、馬が売り渡される仕組だった。
馬市でも、牛市でも、不思議に大衆に人気(にんき)のあったもので、売買する人は素より、ご隠居(いんきょ)さん、若旦那、学生、子供まで、せり場にきて、――もっとも皆、馬だけを見ているわけではないが、そのあたりをうろうろ、ちらちらしていた。結構なレジャーだった。
明治・大正時代、せり市の主催は、東臼杵郡産牛馬組合だった。事務所が新小路にあった。(別絵にある)
今は絵の時代と違って馬市は農耕馬が少なくなり、延岡軽種馬生産組合が主催して、年に1回催される。現在はせり市と云えば牛市だと思ってよい程牛市は頻繁に行われている。
仔牛市は、東臼杵郡市畜産農業組合連合会(畜連)が主催して年3回、成牛市は、畜連と宮崎県家畜商協同組合の共催で月3回(年36回)開かれている。
農業が機械化して、馬がいらなくなったのみならず、荷馬車はトラックにかわり、客馬車はバスにかわった。
やがて市街地の子供などは、動物園に行かなければ、馬を見ることができなくなるだろう。
思い出すのは日吉小次郎さん(農業の研究指導者)がいったこと。――「小嶋さん。素人は困る。馬匹改良のためだといって競馬(けいば)を奨励しよる。競馬の馬と農耕の馬とは違うとですよ。アハハ・・・」
(原文のまま)
* * * *
東臼杵郡畜産組合の記録を見ると、明治30年(1897)の馬の出場頭数は788頭、平均価格は21円85銭。現在の貨幣価値に換算すると1頭が7、8万円となり、意外に安かった。
明治40年(1907)になると、出場頭数1421頭とほぼ倍増し、平均価格は28円91銭と3割ほど高くなっている。
牛の方は、明治40年の出場頭数は686頭、馬の半数にも及ばない。価格は平均22円83銭と、現在の牛に比べると信じられないほど安い。
参考までに昭和10年(1935)の馬の出場頭数は591頭、平均価格は86円。明治40年と比較すると、出場頭数は3分の1ほどに減っている。逆に価格は3倍も高くなっているが、諸物価も3倍ていど高くなっており、実質的な価格上昇とはいえない。
牛は昭和10年の出場頭数が1704頭と、2倍以上増えている。平均価格は66円70銭と、馬同様に諸物価の上昇に伴って高くなっていったものと思われる。
(この項つづく)


















