延岡市・日向市・門川町・美郷町・諸塚村・高千穂町・日之影町・椎葉村・五ヶ瀬町の情報をお届けしています。
「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(92)方財島=西南戦争余話⑥=
By 0982.TV On 12 2月, 2010 At 12:18 PM | Categorized As 延岡市, 延岡百景, 新着ニュース, 県北百景 | With 0 Comments

houzai015 西南戦争での延岡隊の死者は80人、今山公園(今山八幡宮社務所南側)にはその名前を刻んだ招魂碑がある。しかし、薩兵の命令に従わなかったり、戦いに巻き込まれて死亡したと思われる人などは含まれていない。

 

 例えば、亮天社(旧制延岡中の前身)の漢学教師で旧細川藩士の益田源七(当時67歳)は、亮天社が薩軍の兵器工場と化して、休校になったことに反発したため、斬首刑に処せられている。ほかにも、通謀容疑をかけられた分城村(門川)の農兵・高見吉郎は斬殺、中の瀬(延岡)の代言人(弁護士)の辻氏も、スパイ容疑で斬殺になっている。

 

毎年4月20日に今山公園で行われている西南の役戦没者の招魂祭

毎年4月20日に今山公園で行われている西南の役戦没者の招魂祭

 西南戦争では軍に反発したりスパイ容疑などで、武器を持たない一般人が数多く処刑されている。常軌を逸した兵士が暴走、一般市民がその犠牲になることも珍しくなかった。 

 

 それはともかく、延岡は市街戦こそ避けられたものの、住民は哀れそのものだった。糧食をほとんど持たない3500人もの薩軍が延岡に入ってくると、たちまち食料難に陥り、宿泊施設にも事欠いた。当時(明治10年)、延岡・岡富・恒富地区の人口は1万5000人足らずだから、3500人という数の大きさがわかる。参考までに延岡の市制施行当時(昭和8年=1933)の人口は、4万2401人(同年12月末日の統計)だった。

 

明治10年8月9日に西郷隆盛が宿泊した原時行宅跡(現在は延岡市健康管理センター)

明治10年8月9日に西郷隆盛が宿泊した原時行宅跡(現在は延岡市健康管理センター)

 追い討ちをかけるようにして、薩軍の後を追って数万人もの官軍が延岡に入ってきた。官軍は食料はどうにか確保していたようだが、宿泊場所に困まり、将校クラスは民家などに宿泊できても、兵卒のほとんどは野営を余儀なくされた。西郷隆盛が8月9日に泊まったという本小路の原時行宅(旧内藤家の家令)にも、官兵が入って宿泊している。

 

 

 加えて、官・薩両兵の負傷者が町のあちこちにあふれ、住民はその対応にも追われた。方財の老人の話には「負傷者が送り戻されち来て、方財でも世話をしました。降服(降伏)した薩摩軍の人たちが、方財神社の境内に、すわったり寝ころんだりしちょりました。村んもんが水やら茶を持って行ってやると、ゼニをくれよりました」とある。また、島野浦にも降伏した多数の薩兵が、一時的に集められている。戦いが終わっても、負傷兵や降伏兵らの対応で、延岡の混乱はしばらく続いたことがわかる。

 

 

西南戦争で多くの負傷者が担ぎ込まれた方財神社

西南戦争で多くの負傷者が担ぎ込まれた方財神社

 もう一つ大変だったのは、紙くずとなった軍票「西郷札」。膨大な西郷札がはんらん、延岡は経済危機に陥った。西郷札が佐土原(現宮崎市)で製造され、大量に使われたのは宮崎から延岡の間という限られた地域。しかも、薩軍が北へ北へと撤退するにつれ、西郷札も後を追うように北上した。

 

 

 その行き止まりが延岡だったからたまらない。14万円余(現在の貨幣価値で20数億円)製造されたうち、どれだけ延岡に持ち込まれたのか、その額はハッキリしないが、半端な数字ではなかったハズだ。

 

 

 延岡をはじめ日向国内の人たちは、西郷札と政府発行貨幣との交換を期待していたものの、終戦11カ月後の明治11年8月、鹿児島県(日向国は当時、鹿児島県だった)から拒否されている。

 

 

 これらを総合すると、延岡は西南戦争で経済的に最も悲惨なめにあった町の一つといっても過言ではない。

(この項おわり)

ご意見・ご感想はこちら!


0982テレビ|延岡市・日向市・門川町・美郷町・諸塚村・高千穂町・日之影町・椎葉村・五ヶ瀬町の情報をお届け!宮崎県北情報のことならココ!