「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(92)方財島=西南戦争余話⑤=
西南戦争では、薩摩の兵士に加えて、延岡、高鍋、飫肥、都城などの各隊も参戦している。これらは党薩諸隊といい、延岡隊は旧藩士で組織され、約250人が戦場の熊本に向かった。ほかに農兵ら合わせて約1400人が参加している。
他の隊は鉄砲や弾丸が大幅に不足していたのに対し、延岡隊は全員に小銃が行きわたり、弾丸は党薩諸隊の中では最も豊富だったといわれ、飫肥隊と佐土原隊に合計2万1000発の弾丸を貸している。熊本隊にもいくらか貸している。
子供のころに古老から「内藤延岡藩はカネがのうして、貧乏じゃったげな」と、聞かされていたが、少なくとも明治以降の内藤氏には当てはまらない。明治の半ば過ぎには鉱山(日平銅山=現延岡市北方町)経営などで年収は50万円もあった。現在の貨幣価値に換算すると20億円を超える巨額。今様、億万長者である。
薩軍は人吉での戦い以後は、鉛弾よりも軽い錫(すず)の弾丸を使ったり、宮崎の戦い後は鉄の弾丸を使うなど不自由した。耳川の戦いでも鉄弾が使われ、撃っても官兵たちのいる対岸には届かず、水面にポチャポチャ落ちるだけで、官兵の失笑をかっている。
ところが、門川の戦いでは鉛弾が使われた。官軍の参謀たちは「延岡から補給されたのではないか」と思ったという。ただ方財でも、薩軍は鉄弾を使ったと思われる話が残っている。なんでも天保山(方財の墓地がある小高い場所)から撃った弾が、波打ち際までしか届かなかったという(故・浜月藤平さん=慶応元年12月27日生=の話)。天保山から波打ち際までは200㍍ほどしかない。
党薩諸隊の中でも弾薬に恵まれた延岡隊だったが、官兵の数と物量には勝てなかった。延岡隊が初めて官軍と戦った明治10年(1877)4月20日の熊本の城東会戦(健軍方面での戦い)は、官軍を大いに苦しめ大損害を与えているが、延岡隊も多くの死傷者を出している。
その後、五ケ瀬川沿いに官軍第一旅団と交戦しながら撤退、8月14日に野田口(延岡城西の丸南西側)で、官軍が延岡の町を占領したことを知り、降伏している。
したがって、延岡隊は翌8月15日の和田越決戦には参加していないが、谷口時輔正軌(まさのり)、駒木根信成ら一部の旧延岡藩士はこの戦いに加わり、壮絶な死を遂げている。事切れた駒木根の懐中からは、和歌2首が見つかり、当時の人たちの涙をさそった。
「秋の野に 人まつ虫の 声きけば あわれぞ勝る 今日の別れ路」
「屍は 野にさらすとも 武士の 尽すまことは 果さざらなむ」
この2首は、「和田越決戦之地」の石碑の脇にある案内板に掲示されている。
(この項つづく)












