「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~(92)方財島=西南戦争余話④=
カネと物資のない戦争は、実にあわれなものである。先の太平洋戦争がそうだし、西南戦争も例外ではなかった。薩軍の戦費は70万円余(西郷札を除く)に対し、官軍は5000万円ほど投入している。これでは土台話にならない。
小嶋さんが聞いた方財の老人の話に「もっぽ」(もくほう=木砲)が出てくる。薩軍は延岡で金属の大砲のほか、なんと木製の大砲も造っている。その材料は松の木だった。平原などの松並木を切り倒し、幹をくり抜いて、それを砲身にしたのである。木砲工場は伊達(延岡)の農家・鎌田万吉宅の納屋を充てたという。しかし、しょせん木で造った大砲、実戦に使えるわけがない。
弾(たま)は「赤土を捏(こ)ねて丸めたもの」と、方財の老人が言っているので、粘土をまるめ、干し固めただけのものである。この大砲で長浜沖に停泊中の官軍の軍艦めがけて撃ったら、老人の話では「弾は波打ち際に、ぽちゃりと落てよりました」。笑うに笑えない話である。
ときには、ドーンと撃ったとたん、砲身が破裂することもあったそうだ。1発撃っただけで使用不能になったりするのだから、大砲というには、あまりにもお粗末なものだった。薩軍は木砲以外にも、木銃も造った。もちろん弾は撃てない。延岡市北川町俵野の西郷隆盛本陣跡の資料館には木銃が展示されている。
しかし、薩軍は延岡で金属の本格大砲も製造している。延岡中から金属をかき集め、大砲以外にも砲弾や銃弾も造っている。大砲は新小路の願成寺の前から愛宕山に向けて試射しており、まずまずの成果を収めたようである。
脆弱(ぜいじゃく)な薩軍に対して官軍は、「日進」(1383トン、大砲12門)、「清輝」(884トン、8門)、「鳳翔」(316トン、5門)、「丁卯」(125トン、5門)の各軍艦を、長浜沖に待機させた。さらに「猛春」(357トン、4門)も加わっている。いくつもの砲身が延岡の町に向けられていたのである。
太平洋戦争の軍艦に比べると、はなはだ貧弱だが、当時は最新鋭の軍艦であり、官軍を援護するため長浜沖から撃った弾が、数キロ離れた城山あたりまで、なんなく届いている。ただ、城山頂上の時報を知らせる太鼓台が焼失したのは、艦砲射撃を中止させるために、官軍第2旅団の中岡祐保大尉が部下に命じて、太鼓台に火を放ち、烽火(のろし)代わりにしたからだ。この太鼓に代わって翌明治11年(1878)から時を告げるようになったのが「城山の鐘」。
艦砲射撃で延岡の住民は大騒ぎとなり、お年寄りや女、子供は疎開の準備まで始めている。中には自宅の畑を掘って、家財道具を埋めた人までいる。しかし、薩軍が北川方面へ撤退し、艦砲射撃もおさまって、すんでのところで大規模な市街戦は回避された。
市街戦が避けられたのは、奇兵隊長の野村忍介(おしすけ)に対し、延岡大区長の塚本長民(ながひと)が薩軍の延岡撤退を申し入れ、野村が薩軍幹部の池上四郎らを説得したからである。この野村・塚本の会見は、江戸城を無血開城した西郷隆盛と勝海舟との会見の延岡版といえる。野村・塚本の会見が1日遅れていたら、延岡の町は間違いなく焼け野原になっていた。
(この項つづく)












