小嶋さんが方財の老人から聞いた話の中に「東海方面に戦が移っていて(中略)、刀がきらきら光って、何ゃいらん、タチの魚を投げ散らかすごつありました」とある。
「タチの魚」とは、太刀魚(たちうお)のことで、刀がきらきら光るのを、「タチの魚を投げ散らかすごつありました」という表現をしているところが、刀を振り回して戦う様子を見事に描写していておもしろい。
辺見十郎太らは官軍に追われて明治10年(1877)8月14日、方財の対岸の東海・水尻に船で渡っている。方財の老人が「東海方面に戦いが移っていて」といったのは、東海・水尻の方ではなく、同じ東海地区でも無鹿から稲葉崎、和田越方面にかけてのことをさしている。つまり、15日の和田越決戦での様子を、そう表現したのだ。
辺見は、8月12日の鳴子川(門川)の戦いのとき、鳴子橋を渡って来る官兵に対し、刀を抜いて大奮闘している。このときも、遠くから見ていた人は、それこそ太刀魚を投げ散らかすようだったに違いない。鳴子川は、斬られた官兵らの鮮血で、真っ赤に染まったという。
門川町加草、永願寺の下の旧国道10号線と、JR日豊本線の間に「辺見十郎太奮戦の地」と書いた標柱が立っている。門川の戦いや先の耳川の戦いでは、官兵だけでなく薩兵も多数の死傷者を出している。
負傷兵は、当然手当てを施されるのだが、当時は医者はいても、延岡には多人数を収容できる病院などはない。そこで病院の代わりをしたのが神社仏閣である。特にお寺の本堂は広々しているので、負傷兵がたくさんかつぎ込まれた。旧藩士宅にも負傷者が多数収容されている。
負傷者は手当てを受けたあと、故郷に送り帰される。戦争が始まったころの薩兵の負傷者は、熊本から八代経由で、鹿児島へ運ばれていた。ところが、八代方面が官軍に押えられると、今度は、三田井(高千穂)、延岡経由で運ばざるを得なくなった。
一方、官軍は富高・細島占領後、細島に病院を開設し、主に県北で負傷した兵士の手当てをした。介護もむなしく亡くなった人も多く、その人たちは、後に細島の官軍墓地に葬られた。中には遠く関東、東北出身者もいる。
西郷の子・菊次郎は、高瀬(現玉名市)の戦い(山鹿の戦い説も)で足を負傷し、治療のため早い時期に延岡に入って来たようである。一時、成就寺(現延岡市北川町可愛)、祝子村小野(現延岡市祝子町)で治療を受けていたという。菊次郎はこのケガがもとで、片足を失っている。
菊次郎は、8月16日に西郷隆盛が出した解軍令の後、薩軍司令の桐野利秋(父・西郷隆盛の説も)に諭され、8月18日、西郷の老僕・永田熊吉に連れられて、官軍中将だった西郷の弟・従道(じゅうどう=つぐみち)のもとに行き、救われた。
このとき菊次郎と従道は、互いに初めて顔を合わせた。「おお、お前が菊次郎か。兄(隆盛)は元気か」。従道は涙をこらえきれなかったという。これ以降、菊次郎は従道に付き従い、後に京都市長になった。従道は海軍大将元帥へと上り詰めている。
菊次郎と従道が延岡で出会ったことは、ハッキリしているが、延岡のどこなのか、正確な場所はわかっていない。
(この項つづく)



















