老人の話の中で、方財に来た薩兵に、住民が食事を与えているが、薩兵はこうした接待を各地で受けている。方財では官軍が薩兵のすぐ後を追っており、薩兵を座敷に上げて食べさせる余裕などなかったはずで、おそらくおにぎりをパクッと加えて、すばやくお茶を飲み、お礼を言って立ち去ったことだろう。それは次の話からも、容易に想像できる。
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官軍が方財に入って来ると、薩兵は「大うろたえで、岸につないであった船ちゅ船を集めて、われ先きに飛び乗り、乗ったかと思うと漕ぎ出す。纜ほどく隙がのうして、刀で叩き切る。櫓が手に入らん者は刀の鞘ごみで水を掻く・・・」。 *纜=ともづな。櫓=ろ(舟をこぐ櫓)。鞘=さや。
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追われる薩兵が、いかにあわてていたかよくわかる。刀の鞘で水をかいても、大して進まないだろうに。このとき雷撃隊長の辺見十郎太らは、方財の船を根こそぎ集めている。これが功を奏して、追ってきた官軍の新撰旅団(しんせんりょだん)の兵士は、渡河するすべがなく、歯ぎしりしてくやしがったそうだ。
それにしても、辺見らはよくぞ方財にたどり着いたと感心する。長浜から方財にかけての地形は現在とはかなり違い、当時の長浜海岸は沿岸州状になっていて、北は大瀬川河口から連なる入江が、南は浜川が長浜海岸に沿って奥まで入り込んでいた。長浜海岸の西側は、いわゆるバックマーシュ(後背湿地)になっていたのである。
だから方財に行くには、これらの入り江や川・湿地の水をかき分けて無理に渡るか、丸ケ島(現長浜町)の南側と別府(びゅう)北側の間を抜けて行くしかなかったハズで、入江や川・湿地などの障害物を避けて、迷うことなく一直線に長浜の最北端、さらにその先の方財を目指したとは考えにくい。地元の住民に聞くか、地元の者に案内させたかだろう。
このときすでに、延岡の町は官軍に占領されていたが、市街地から遠く離れた丸ケ島、方財一帯は、まだ占領されていない――という情報も、辺見らはつかんでいたわけだ。
もう一つ、辺見らは幸運に恵まれていたことがある。それは、丸ケ島と方財をつなぐ通称「毛無し浜」(けなしはま=切れ港)が、たぶん切れてはいなかったということである。
方財の老人たちの話に「海岸を突進して来る薩軍の有様は、まるで白い羽根の蝶々が、ひらひら舞うち来るごたった」とあるが、この老人は、おそらく「毛無し」を突進してくる薩兵の様子を語ったものと思われる。
西南戦争の年は雨が多く、辺見らが方財にやってくる数日前まで、大雨が数日間降り続いていた。この豪雨の最中で、しかも「毛無し」が切れていたら、簡単には方財に渡れなかったハズで、「白い羽根の蝶々」という表現にはならなかっただろう。
余談だが、半世紀ほど前まで大雨で五ケ瀬、大瀬、祝子(ほうり)、北の四河川が洪水になると、「毛無し」の内側に大量の水がたまり、水が逆流して延岡の町にあふれ出ていた。これを防ぐために、町の依頼を受けた方財の人(消防組)たちは、スコップなどで砂をかき出し、浜を切っていた。
「毛無し」を開削するとき、方財の人たちは命がけで事にあたっていた。おかげで延岡の町の人は、洪水のたびに、方財の人たちに助けられていたのである。
昭和30年代の中ごろまで、延岡中学校に通っていた方財の生徒たちは、台風など大雨のとき「毛無しが切れんじゃろかい」と、ハラハラしなければならなかった。そして校内放送で「毛無しが切れるそうですので、方財の生徒は早く帰ってください」のアナウンスがあると、ほかの生徒は「早よ帰れち、いちばんいいき」と、うらやましがった。
(この項つづく)

















