小嶋さんは、方財島に関してことのほか詳しかった。というのも、戦前に5年間、方財小学校の校長をされていたからであるが、それ以降も亡くなるまで、たびたび方財を訪れ、地区の人たちと交流した。その間、方財の歴史や民俗、教育などを研究、著書「郷土史 方財島」(昭和50年=1975発行)にまとめた。「延岡百景 今と昔」の方財島の項には、次のようにつづられている。
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小・中学校時代、筆者は「方財島」の土を踏んだおぼえがない。ただ板田橋をわたるときに、川下に見える島の松並木を指して「あれが方財島だ」と教えられた。特に松並木の右の端に立っていた、特別に背の高い松の一本は、駝鳥が両方の羽根をひろげて、空へ向って飛び立とうとしている姿に似ていて、八十三才の今も瞼(まぶた)から消えない。
絵は、その駝鳥の松から描き始めた。村の家は、そこから見下ろした形に描いた。松は村中に生えていたので、その松林を透して集落の家が見える格好に描いた。筆者がここの小学校につとめていた昭和初年、家の数は300位といい、小学生は300人程といった。
今度聞いてみると、家の数は増えたが、子供の数はその時よりぐんと減っている。いわゆる過疎傾向の地域である。
住民は、半分が農業(絵の左向うに、鷺島という大きな島があり、全部が昔から耕地だった)。半分は漁業者であったが旭化成が出来てからは、漁業者が減り、一方では会社の工員がふえ、町に出るものが多くなっている。若いものには東京、大阪などに出て生活を立てるものが多く、各方面の社会で成功しつつある。
筆者は岡富、東海などの小学校に勤めたあと、昭和8年からこの方財島の学校に5年間、勤めた。おかげで集落の歴史や風習も一通り理解しており、現在も集落の人に親しみが深く、昨年は『方財島』という、歴史や民俗や教育のことを内容とする230ページあまりの本を書かせてもらった。永い漁村の歴史から集落の素朴(そぼく)でその一面、一種のねばり強さを持っている。
近年、商店、農協の売店、百貨店の支店などふえ住民の生活が町並みになって行く傾向が強い。もうやはり「方財町」である。海岸と河岸に、数年来、何万という消波ブロックを埋めこみ、護岸に努力すると同時に養魚養貝方面にも熱意を以って施設を充実しようとしている。(原文を一部修正)
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方財島は長浜海岸とともに典型的な沿岸州(えんがんす)であり、対岸の東海町川口近くまで伸びた砂州(さす)でもある。それは延岡藩主・有馬氏時代の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(1675~1683、明治大学蔵)、やはり有馬時代の「延岡城下図屏風」(1670~1680、吉田精孝氏蔵)にも、ハッキリ描かれていることからもわかる。その後に書かれた内藤氏時代の地図でも沿岸州になっている。
明治中期の地形図では、出北平野と長浜沿岸州はほとんどくっつているが、浜川が出北平野と長浜沿岸州を分けるように、深く入り込んでいるのを確認することができる。長浜町とその延長線上の方財町は、沿岸州上に発達した集落であり、もとは惣領・浜砂地区などを親村とする一種の納屋集落だったかもしれない。
いつごろから方財島に人が住んだのかは正確にはわからないが、少なくとも江戸時代初めには居住者がいた。前記の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」に、方財島の集落が描かれていることからもわかるし、島の旧家に残る「鉦」(かね)にも「元禄三歳午正月十八日」(1693)刻され「浜山」(当時の方財島)の文字も出てくる。
また町内の観音寺境内にある「春貞」という人の墓には「元禄十二年卯正月十九日」(1699)と彫られている。ほかにも方財の歴史を示すものが残っている。
(この項つづく)

















