この項①で紹介した小嶋さんの文章にもあったように、出口の手すき和紙は良質で、国内外の博覧会で入賞したこともある。
明治28年(1895)、京都で開かれた第4回内国博覧会では、延岡の物産も数多く出品されており、その中に出口の和紙(半紙)も含まれている。県内から1769点の出品があったが、東臼杵郡関係で入賞したのは29点。このうち日向半紙ほか7点を出品した恒富村出口の四倉徳蔵(徳三)氏が見事、有効2等を受賞している。有効2等は四倉氏と、椎茸を出品した東海村の興梠直六氏の2人だけ。
このほか、矢野菊弥氏(美濃紙ほか5点)が有効3等、宮崎弥太郎氏(改良半切ほか4点)と樋口次郎氏(改良半紙ほか1点)が入賞し、褒状を受けている。矢野、宮崎、樋口氏はいずれも恒富村出口(いでぐち)の人。
高知の「土佐和紙」技術者をスカウトした四倉重三氏(この項①で紹介)の先祖は、延岡藩主の内藤氏の前任地・磐城平(現福島県)四倉の出身で内藤氏の家臣だった。明治に入って武士が俸禄を奪われ職を失ったため、手すき和紙で生計を立てることになったという。
四倉氏が高知まで行って技術を習得したのではなく、わざわざ高知の技術者を雇い入れたほどだから、家内制手工業ではなく、家族以外の従業員も何人か雇って、マニュファクチュア(工場制手工業)として、大量生産していたようである。
その後を継いだのが徳蔵氏だが、この人は重三氏の甥(おい)。徳蔵氏は、現在延岡市安賀多町で歯科医院を営んでいる四倉氏の大叔父(おじ)にあたる。
ところでこの博覧会には、旧藩主・内藤政挙氏(型銅=有効3等)、豪商・石見屋の小田清兵衛氏(木炭=有効3等)、鰤大尽・日高亀市氏(鰤大敷網、塩鰤=有効3等)、豪商・谷仲氏(石花菜=有効3等)など、延岡経済界の実力者が名を連ねている。
谷仲氏が出品した石花菜(せっかさい)というのは海藻のテングサ(天草)のことで、寒天(かんてん)・ところてんの原料。石花菜は南浦の清家藤次郎氏(褒状受賞)も出品しており、当時は日豊海岸の特産品だったようだ。現在、テングサ生産日本一は静岡県。
盛んだった延岡出口の紙すき業はすたれてしまい、今は1軒もない。宮崎県の製紙業は延岡のほか美々津、穂北(西都市)、綾、国富、都城、飫肥(日南)などでも盛んに行なわれていたが、現在残っているのは美々津の佐々木寛治郎さん(74)の工房「みみつ手漉和紙」1軒だけ。佐々木さんはつい先日、厚生労働省の平成21年度「現代の名工」に選定された。県の無形文化財、伝統工芸士でもある。
美々津の製紙業者は、江戸時代には約60軒、昭和30年ごろでも16軒あり、石並川には真っ白なコウゾが、川幅いっぱいにさらしてある光景が見られた。美々津の製紙業は、コウゾ、ミツマタといった原料が得やすかったのと、石並川が目の前にあったからこそ立地した。出口の和紙も、大瀬川という清流の恵みを受けて立地していた。
(この項おわり)
















