紙すきというと、日向市の「美々津紙」を連想する人が多いだろうが、延岡でも明治・大正時代は、出口地区で紙すき業が盛んだった。優秀な和紙で、国内外の博覧会で入賞している。小嶋さんは、紙すき屋の思い出を次のように記述している。
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明治41年から45年まで、古城町の中学校に出た筆者たちは出口(いでぐち)で紙すき屋から聞えるカタンカタンという、はずみのよい音を、よく聞いた。
紙には大別して、日本紙と西洋紙の二種類がある。今、書くのは、もちろん日本紙のだ。紙の原料は多く楮(こうぞ)の木の皮だった。皮をはいで、釜で煮て、軟らかになったのを、丈夫に作った叩き台で叩いて、糊のようになったのを、漉槽(すきぶね)という、木で作った矩形の箱に入れて、適当に水に解かす。それを竹製の簀(す)ですくって、一枚一枚、上から重ねて水を絞り、今度は、一枚一枚剥(は)ぎ取って、張板(はりいた)に張って、日にかわかす。
これだけの作業が「紙を漉く」という作業である。出口を通ると、紙すき屋の庭にほしてある張板の紙が、白く、まぶしく、日を照りかえしているのが、よく見られた。
もっとも普通に使われた紙は、半紙と塵紙(ちりがみ)、大きさは縦(たて)24~26センチ、横32.5~35センチ。子供が字の稽古をした「習字草紙」は、半紙1帖(20枚)を綴じたもの、店屋の帳面なども半紙。塵紙は、楮の皮の屑(くず)で漉いた紙、鼻紙(はながみ)ともいった。
出口は、延岡でも良い紙を漉いた。「出口半紙」の名があった。明治16年(1883)ここで紙すき屋を始めたという四倉重之さんは、わざわざ高知県まで行って、藩お抱えの製紙技術者、久松源吉という人を雇って来た。大正14年(1925)フランスのパリーで開かれた万国博覧会に旧藩主内藤家の銅鉱と共に、延岡製の紙を出品して、表彰せられた。
〇延岡での紙言葉・・・半紙・障子紙・藁半紙・藁紙・巻紙・襖紙・熨斗紙・包み紙・奉書紙・画 用紙・清書紙・傘紙・原紙・薄紙・帳面紙・鼻紙(花紙)・西洋紙・日本紙・改良半紙・反古紙 ・反物紙・美濃紙・礬砂紙・袋張り紙・表紙紙・筋紙。(原文を一部修正)
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小嶋さんは、四倉重之さんが高知県から久松源吉という製紙技術者を雇ってきた――と書いている。四倉重之さんは、正しくは四倉重三さん。スカウトされた久松という人は高知市のすぐ西隣、現在の「いの町」(旧伊野町)の技術者。同町は古くから「土佐和紙」の産地で知られる。今でも日本有数の和紙生産地である。
(この項つづく)
















