小嶋さんは、「新小路は広い区域の地名だった」と書いている。確かにそうだった。昭和32年(1957)の町名変更まで新小路と名が付いていたのは、北新小路、東新小路、南新小路。西側は西小路(さいこうじ)で、新小路を冠しない別の町。このうち南新小路が現在の新小路、東新小路は三ツ瀬町となったが、北新小路は今も同じ町名で残っている。
このように、新小路など旧恒富村北部の町名は、戦前・戦後を通してめまぐるしく変わっている。大瀬町も以前は川原町だったし、春日町は北三ツ瀬と南三ツ瀬、旭町の現在の旭化成延岡支社ビル(旧旭化成サービス、恒富供給所)付近は東三ツ瀬という具合に、恒富地区の人でさえ、どこがどう変わったのか、わからないくらいだった。
この項①で紹介した小嶋さんの記述の中に「三宅(みやけ)家」が出てくる。三宅家は平原町の、「山本家」、惣領町の「山口家」などとともに、恒富地区を代表する素封家だった。現在の社会福祉センターとその西隣のガソリンスタンドが屋敷になっていた。
小嶋さんが「三宅家から出た三宅正意翁と双璧」と書いた小林乾一郎(けんいちろう)翁は、旧内藤家の家令として内藤政挙公を支えた人物。県議会議員、同議長、国会議員を務めたほか、旧制延岡中の前身・亮天社の英語教師でもあった。旧制延岡高女の前身・女児教舎(内藤家経営)の創設に尽力した。
日本画家・小泉二山翁は、旧制延岡高女の教師でもあり、三宅家の南の角に住まいがあった。現在の(有)小泉銃砲火薬店で、社長の小泉光生さんは、二山翁のひ孫に当たる。
松本武庸翁は、秀才一家の松本家の長男。延岡を代表する書家で、旧制延岡中、延岡高女の書道教師だった。次男は俳人の林太郎氏(号は木二)、新小路の願成寺境内に句碑がある。三男の匠氏は旧海軍少将。
四男が平野家の養子となった平野庫太郎元陸軍大佐。太平洋戦争中の「バターン死の行進」の責任を取らされ、戦後に極東軍事裁判で絞首刑になった悲運の人。人格者であり、多くの部下が署名を集めて嘆願書を提出、無実を訴えたが叶わなかった。
新小路は、平野元陸軍大佐と旧制延岡中の同級生だった歌人・若山牧水も住んでいたことがある。牧水は、親せきで同中学教師の黒木藤太方に間借りしていた。ここは山口武四郎という人の貸家で、牧水は6畳ほどの屋根裏部屋に住んだ。この家は安政6年(1859)に建てられ、現在もほとんど当時のままの姿をとどめている。牧水が間借りしていた部屋(約6畳)も当時のまま残っている。
山口武四郎氏の子息・徳之助氏は旧延岡盲学校(元延岡医師会館、現延岡市民協働まちづくりセンターの場所にあった)の初代校長。その子・卉吾(そうご)氏は新小路で昭和50年代まで歯科医院を開ていた。この付近の町名は、昭和32年の町名変更まで南新小路だった。
(この項おわり)
















