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「新延岡百景」~小嶋政一郎氏をしのぶ~延岡中学校=番外編⑤=
By 0982.TV On 2 12月, 2009 At 12:21 PM | Categorized As 延岡市, 延岡百景, 新着ニュース, 県北百景 | With 0 Comments

nobetyuu011 日本の民間パイロット第1号になった後藤勇吉氏のその後の活躍はめざましく、大正11年(1922)日本初の旅客輸送成効、12年9月の関東大震災のときは、東京~大阪を何度も往復して、6万通の郵便物の輸送をこなしたほか、被災情報を大阪の新聞社に届けた。

 13年には、毎日新聞社主催の日本一周飛行(大阪~鹿児島~秋田~大阪、全行程4395キロ)に成功、名パイロット・後藤の名は全国にとどろき渡った。

 

 こんなエピソードがある。14年(1925)12月31日、横浜からアメリカに向けて出港する船の乗員が、重要書類を神戸に忘れた。出港まで5時間足らずの余裕しかなく、当の乗員が途方に暮れていたとき、後藤飛行士に連絡が入った。後藤氏はさっそく飛行機を飛ばし、横浜まで書類を届け、無事出港時間に間に合った。飛行機の威力を、改めて世間に見せつける格好の機会になった。

 

城山公園にある「後藤勇吉之碑」

城山公園にある「後藤勇吉之碑」

 15年、大阪~大連(中国遼東半島)を京城(現ソウル)経由で空路を開拓、大阪~大連間の郵便物空輸にも成功した。

 

 昭和2年(1927)には、宮崎特産の日向カボチャ(黒皮カボチャ)、キュウリ、夏ミカンなどを宮崎から大阪に空輸し、大阪の市場関係者や市民を驚かせた。これが日本初の生鮮食料品の航空輸送。この年の5月、アメリカのリンドバーグが大西洋単独横断飛行に成功。これに刺激された帝国飛行協会は同年6月23日、太平洋横断無着陸飛行計画を発表、後藤氏はその監督になった。

 

 大西洋よりはるかに距離のある太平洋横断であり、訓練は並みのものではなかった。列車に乗るときには、傘を操縦桿(かん)代わりにして座席に座り、長時間微動だにしなかったというほどだ。

 そして、運命のときがやってくる。昭和3年(1928)2月29日午前8時15分、後藤氏ら3人が乗った13式艦上攻撃機は、長崎県の大村海軍航空隊基地から600マイル(約1000キロ)先の茨城県霞ケ浦航空隊基地に向けて飛び立った。

 

延岡高校にある後藤勇吉飛行士の胸像

延岡高校にある後藤勇吉飛行士の胸像

 離陸時の天候は雨。いざ飛んでみると濃い霧が立ち込め、視界は極めて悪かった。このため、長崎・佐賀の県境上空付近で、いったん大村へ引き返すことにした。

 

 しかし、これが死のターンとなった。機首を大村方向に向けて間もなく、佐賀県七浦村(現鹿島市)の多良岳(996メートル)北側斜面の柿の木に主翼を引っ掛けて墜落、炎上した。大村を離陸して約15分後のことだった。後藤氏は監督として助手席に乗っていたが、運悪く後藤氏だけが死亡した。享年33。

 

 この事故によって太平洋横断飛行計画は頓挫(とんざ)したばかりでなく、日本の航空界は大きな人材を失ってしまった。同年9月17日には、郷土の歌人・若山牧水も亡くなっている。

 

 事故からすでに81年、当時5歳だった後藤氏の長男・高行氏、事故後に誕生した次男・洋吉氏も、ともに故人となった。高行氏は延岡市シルバー人材センターの初代事務局長を務めた。洋吉氏は旧甲飛(甲種飛行予科練習生)15期生で、長い間「宮崎県甲飛会」の事務局長を務めた。

 延岡市城山公園には後藤勇吉氏の顕彰碑があるほか、妙田緑地公園と門川海浜総合公園に銅像、母校の延岡高(旧制延岡中)には胸像がある。

 

 平成18年(2006)に廃館となった交通博物館(東京・神田須田町)の航空機コーナー陳列ケースには、後藤飛行士が空の先駆者の一人として、顔写真入りで紹介されていた。

 

 後藤飛行士が亡くなったのは、うるう年の2月29日だったため、顕彰会は毎年2月28日(うるう年は2月29日)に行なわれている。

(この項おわり)
 

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