延岡市民は、五ケ瀬川から北を川北地区あるいは岡富地区(旧岡富村)、五ケ瀬川と大瀬川に挟まれたところは川中地区(旧延岡町)、大瀬川から南は川南地区または恒富地区(旧恒富村)と、呼び分けている。
この3地区は昭和5年(1930)4月1日に合併して新しい延岡町となり、さらに延岡町がそのまま市制を敷いたのは昭和8年(1933)2月11日。これが旧市である。。
旧市を取り巻くのが後に延岡と合併した北の東海(とうみ)地区と南浦地区、西の南方地区、南の伊形地区(土々呂・伊形地区)。これに平成の大合併で北浦、北川、北方の3町(3北地区)が加わった。
その旧市の恒富地区のうち、大瀬川に近い新小路、三ツ瀬一帯は、明治・大正時代まで、江戸時代の武家屋敷と変わらないたたずまいだった。ところが旭化成(最初は日本窒素肥料株式会社)の延岡工場ができると、住宅や商店が次々に建ち並び、急速に都市化していった。
これと並行して発展したのが共栄、伊達(だて)、構口(かまえぐち)周辺である。ここも旭化成の立地と大いに関係があるが、もう一つ、南延岡駅の誕生が町発展に大きく影響している。小嶋さんは、構口の思い出を次のように書いている。
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南延岡駅を中心にした地区で、駅ができて、乗客が通るようになってからの街である。恒富村の中でも、むしろ淋しい地区の一つだった。筆者などは、ほとんど通ることはなかった。土地の人たちでも、「気味が悪いくらい淋しいところでした」といっている。平原生まれで、構口の隣りの「伊達(だて)」に嫁した井上まきさん書いた『思い出の記』にも「構口の宿屋敷(やどやしき)の畑をとおって、つぎは南無妙法蓮華経の石塔が立っていたところ、気味が悪くて――右をむいても左をむいても、みな田ん甫で――」とある。まきさんが、平原からそういう構口を通って本小路の女学校に通学したのが、70年も昔だった。
絵を発表したあとで、このあたりの物知りたった山本七郎さんは「構口の南無妙法蓮華経は、よく描いてありますよ。あん通りじゃったです。淋しいところで、雨どん降る日は、日中はともかく、夜どま、人ひとり通らざった。人切り場ん跡じゃもんじゃき」と話した。
その石塔は、汽車の開通の大正11年まで、南駅をでた突きあたりへんに建っていた。
構口町は西に横たわる愛宕山の東の端にあるから、日が西に傾くと、よそより早く日かげになり、早く暗くなったという関係もあった。そのころの道は、今でも山の麓に残っていて、十号線は、その旧道の少し東を抜けているのだが、南駅開設以来の町の開けようは、まことに急速であった。
駅の前後左右は、商店、旅館はもとより、浜町、平原町、伊達町などの一帯に――病院、老人ホーム、学校、農協、公民館、郵便局、団地、デパート、アパートなど――。
南延岡駅の北に隣接して、大きな高い煙突の立っている所は南延岡機関庫である。(原文を一部修正)
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文中の「十号線」は、国道10号線のこと。昭和50年(1975)10月に延岡バイパスが開通したため、それまでの国道10号線は、県道稲葉崎平原線になった。また「デパート」とあるのは、廃業した「アヅマヤ百貨店南延岡店」のこと。今はコンビニエンスストアなどになっている。
絵に描かれている「南無妙法蓮華経」の石塔は、現在、県道稲葉崎平原線の西側を通っている幅1メートルほどの細い道の行き止まり、構口公民館の約10メートル北側にある。ただ目立たない場所にあるため、地元の人以外は、その存在を知っている人は少ない。御影石製で高さは台座を含めて2.5メートルほど。同様のものは川原崎町などにも見られる。
(この項つづく)

















