永池という地名は、文字通り長い池があったことから名付けられたという。永池町の北隣の三ツ瀬町は、昔は川(大瀬川の一部かも)になっていて、三つの瀬があり、それが名前の由来という人もいるが、確証を得ない。
もっとも、明治大学図書館所蔵の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(1675~1683)を見ると、恒富地区に池がいくつか描かれている。その昔、永池周辺に池があったとしても不思議ではないようだ。
その永池に、ひょうすぼ(河童=かっぱ、ひょすぼ)が棲(す)んでいたという伝説は、小嶋さんも書いている。今は建物で埋まった権現さん周辺は、100年ほど前は昼間でも人気のない、それこそひょうすぼでも出そうな、さびしい場所だった。
永池権現(永池神社)の由来は、奈良時代から戦国時代末期にかけて、延岡地方を治めていた土持氏の時代に「永池」を埋め立てて「罔象女神」(弥都波能売神=ミツハノメノカミ、ミズハノメノカミ)を祀った―とされている。これが事実なら「永池」は確かに存在したことになる。
ミツハノメノカミは、農耕に必要な水をつかさどる水神とされ、池を埋め立てたことに対する鎮めとして、祀ったのではないか。ただ、それがいつなのかは、「土持氏の時代」と表現されているだけで、ハッキリしない。
明治4年(1871)、権現さんは恒富神社(春日神社)に合祀されているが、明治13年(1880)、信徒の願いで復社した。
昭和20年(1945)6月29日の延岡大空襲では、権現さん周辺は焼け野原となり、権現さんの社殿も焼失した。翌21年、地元住民らが出資して社殿を新築している。その後、この社殿が老朽化したため昭和57年(1982)、現在の社殿に建て替えられた。鳥居は平成2年(1990)に建てられている。
社殿に向かって右側に、戦没者や出征者の名を刻んだ「日露戦役記念碑」(明治44年=1911=4月18日建立)がある。碑の裏側には記念のイチョウを一本植樹と刻まれている。このイチョウは、社殿に向かって左側の大イチョウと思われる。今やこのイチョウが、権現さんのシンボルとなっている。社殿裏には、かなり大きなクスノキがある。しかし、樹勢を失っている。
戦後しばらく、権現さんのすぐ東隣には「日向興業銀行(宮崎銀行の旧行名)南延岡支店」があった。その後「宮崎銀行恒富支店」になり、さらに同支店は、恒富小学校の木造校舎時代の正門の位置に移転した。同支店跡の建物は改装されて「自民党延岡支部」になったりしたが、今はラーメン店「風や」になっている。しかし、建物の外観はほぼ昔のまま。
権現さんの北西約100メートルには、旭化成共済会館があった。現在はその場所に10階建てのマンションが建っている。
また、30年ほど前は東約100メートルには、旭化成の中社宅があったが、ここは「ジャスコ延岡ニューシティ店」のビルと駐車場になった。中社宅の北にあった北社宅はボウリング場の「サンボウル」に。その北隣の「旭化成供給所」は、「旭化成サービス」(旭サービス)を経て、現在は「旭化成延岡支社」ビルになっている。
中社宅の南にあった南社宅は、一時、ゲートボール場などに開放されていた。今は社員駐車場と「旭化成アビリティ」が立地している。
権現さんの西側、南側の住宅街は、さほど大きな変化は見られないが、高齢化社会の波は永池地区にも押し寄せ、マンションを除けば居住者の高齢化が進んでいる。
(この項おわり)

















初めまして、後段の旭化成中社宅などの記述を懐かしく拝見しました。ありがとうございました。
実は昭和40年頃の中社宅を中心とした、当時の恒富の地図を探しているのですが、ご存知ないですか?
ご存知でしたら、教えてください。
中社宅一戸一戸がわかる、地図や航空写真がないものでしょうか?
突然のお願いで申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
昭和34年撮影の航空写真なら弊社に保存しています。
0982.TV 様
お返事ありがとうございます。
もし可能でしたら、その写真を上記アドレス宛に、添付していただけますと幸いです。
それと出来ましたら、同時期で結構ですので、水尻町周辺の写真も有りましたら、同様にお願いします。
勝手なお願いですが、よろしくお願いします。
水尻町はかすかに写っているものがあります。これもご参考にお送りします
届きました。ありがとうございます。
ご多忙の中を、無理なお願いを快諾していただいて、本当にありがとうございます。
色々の想い出がありまして、あの周辺を見たかったので、とても嬉しいです。
これからも、時折ですが寄せていただきます。よろしくお願いいたします。