戦時中は、軍馬が多数必要になり、牛や豚の生産より優先された。その結果、昭和18年(1943)に東臼杵郡市畜産組合は廃止され、和牛や豚などは農業会(農協の前身)へ、馬は東臼杵郡延岡市馬匹(ばひつ)畜産組合を設け、それぞれ育成にあたった。
戦後、再び牛馬関係の組合は統合されて、昭和24年(1949)6月、延岡市畜産販売農業組合連合会が発足した。その後、宮崎県北部畜産農業組合連合会を経て昭和31年(1956)6月29日、東臼杵郡市畜産農業組合連合会(東臼杵郡市畜連)となり、現在に至っている。
畜連の事務所(市場は大貫町)は当時、新小路の県立延岡病院東側にあったが、後に大貫町、さらに現在の櫛津町に土地を求めて、事務所も市場も移転した。
以前に比べると、輸入肉の増加などで和牛生産者は減ったが、質のいい和牛肉、特に宮崎県産の高品質和牛肉(宮崎牛)は人気があり、全国でも高い評価を得ている。生産者や技師、畜連、農協、行政の努力の賜物といえる。
さて、乳牛の方はどうだったのか。昭和38年(1963)発刊の「延岡市史」に次のような記述がある。
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明治22年(1889)延岡において谷仲吉(北小路)、喜多猪三郎(中町)両氏は、搾乳と繁殖企図して、純粋短牛種とエアシヤ種の牝牛数頭、外雑種等22頭を購入して事業を創始した。しかし当時としては牛乳の販売はすくなく、飼育管理も外種牛に対して経験にとぼしい等のため明治29年(1896)に閉鎖している。
この事業は閉鎖したが両氏の事業によって遺血統の種牛は残って生産と質の向上に資することになった。(後略)=原文のまま=
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文中の「純粋短牛種」は、「短角牛純粋種」のことと思われる。当時は岩手県で多く飼育されていた和牛で、現在も人気がある。「エアシヤ種」は「エアシャー種」のことで、英国原産の乳牛だが、搾乳量は「ホルスタイン種」より少ないため、日本での飼育頭数は少ない。
市史の記述にもあるように、谷・喜多両氏の事業は成就しなかったが、種牛は残って、その後の県北の酪農事業に大きな影響を与えたことを考慮すると、決して失敗ではなかったといえよう。
谷仲吉氏は、近江商人の流れをくむ延岡きっての豪商。海産物、山産物の取引で財をなした。歴代当主は「仲吉」を襲名している。
喜多猪三郎氏は、明治42年(1909)2月16日に設立された延岡商工会(延岡商工会議所の前身)の顧問の一人。中町で油商(食用油)を営んでいた。
(この項おわり)
















