耕運機が普及しはじめた昭和30年代前半までは、日本中どこでも農耕で活躍する牛馬が見られた。県北でも農家の多くが牛や馬を飼っていて、田起こし(田打ち)などで活躍した。小嶋さんは、牛馬組合の思い出を次のように書いている。
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絵は「東臼杵郡産牛馬組合事務所」。恒富地区の新小路に建てられていたもの。場所は、のちに中町にあった誓敬時の敷地となったところ。大正時代には事務所の前後は昔ながらの田ん甫であった。誓敬寺時代にも、その田ん甫にテントを張った動物園の興行があったことを記憶している。
大正時代の畜産状況については、郡はつぎのように発表していた。「本郡における馬匹は、郡内の地勢および四囲の事情にかんがみ、資質の改善を要し、『牛』はなるべく牡牛減じて牝牛にかえ、且つ種牡牛の配置をよくして、頭数を増す余地があり、頭数を増加せしむ傍ら、資質の改善をはかる方針なり」と。
県北の「馬」の産地としては、岡富・恒富・北川・北浦・東海・南方・北方・岩脇・富高・門川・伊形の各町村があげられ、「牛」の産地としては、北浦・南方・北方・北郷・北川・西郷・東郷・岩脇・富高・門川の各町村の地名が示されていた。
しかし、時代は大きく回転して、今は、馬が人間に必要でなくなっている。荷馬車にかわってトラックが走るし、客馬車にかわって、バスや列車が走る。わずかに残っているのは競馬(けいば)ぐらいのものだろう。
筆者は博労町時代を思い出す。博労町にあった二軒の牛馬商・・・博労屋(ばくりょうや)に、他県の同業者が集り、売買の相談には、相手の袖の中に手を入れて「こう。こうじゃどうかの」などと値段を指で示す風習があったこと、買い取られた牛馬が、うちの前を、どかどかと足音さして連れて行かれたこと。
馬の横腹にHというローマ字の焼印がおしてあったのは、HYUGAの頭文字で合ったのだろうか――。
(原文のまま)
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文中の「博労屋」は「牛や馬の仲買人」のことで、今はこの表記を使うことはないが、延岡には博労町(ばくろうまち、ばくろまち)の町名が今も残っている。いわゆる延岡七町(北、中、南、柳沢、元、紺屋、博労)の一つで、七町の中では一番北に位置している。元町は戦後、祇園町に含まれ、300年続いた名前は消えた。
誓敬寺(せいきょうじ)は、小嶋さんも書いているように、明治・大正時代は現在の中央通りと中町通りの交差点の所に照源寺と並んであった。大正9年(1920)、新小路に移転し、現在は大貫町にある。照源寺は戦災で焼失した後、近くの北町へ移転。その後さらに川原崎町へ移転した。
牛馬組合のあった場所は、現在は新小路近隣共同緑地になっている。遊具はないが、地震など災害時には避難場所にあてられる。住宅で埋まった新小路の緩衝地帯にもなっている。
参考までに、誓敬寺の先々代住職だった香春建一氏(第1回延岡市文化功労者)は「西郷臨末記」「西郷とその徒」などを著し、西南戦争や西郷隆盛を研究する上で貴重な資料となっている。
(この項つづく)
















