8世紀中ごろから延岡地方の宇佐八幡領を治めることになった土持氏は、しだいに領地を拡大し、14世紀、室町時代初期(南北朝)の土持一党(土持七頭)は、現在の高鍋、宮崎、日南方面まで勢力が及んでいた。
井上城は、この時代に築城されたようだが、土持氏は南の島津氏の脅威にさらされ、伊東氏と組んで島津氏の北上を阻んだ。正長2年(1429)、土持全宣(やすのぶ)は井上城から西階城(宝坂城)に居城を移し、さらに土持宣綱は、文安元年(1444)に松尾城(現松山町)に移った。
土持氏と手を組んでいた伊東氏は天正5年(1577)、島津氏に敗れ、豊後の大友氏をたよって豊後に逃れると、今度は大友氏の日向攻めが濃厚になった。そこで土持氏は島津氏と手を組み、土持親成(ちかなり)は、大友氏が攻め入る直前、幼子の親信(ちかのぶ)を島津氏に預けた。長門(現山口県)に逃れていた説も。
幼い親信の手を引いて、島津家まで同行したのは土持家家老・土持山城守(延岡に残る中城氏の先祖)。天正6年(1578)、大友宗麟は3万(?)もの大軍を率いて延岡に乗り込んだ。松尾城では親成、高信ら約1000人が迎え撃ったが、多勢に無勢。大友軍は松尾城を一気に落とし、土持高信は妙(現妙町の土持神社の場所)で自刃、親成は豊後に送られて切腹、土持氏は滅亡した。松尾城攻めのとき、今山八幡神社も焼かれている。
しかし、土持の血を引く親信は島津家にいたため、無事だった。一説では、妙で自刃した高信は、親信の父・栄続(よしつぐ)ともいわれている。
その後、大友氏は延岡の無鹿(六鹿、牟志賀)に本陣を構え、島津氏を攻めたが、高城(現木城町)の戦いで大敗した。島津軍は手をゆるめず、逃げる大友軍を耳川まで追っている。その結果、多数の兵が耳川の深い淵にはまり、おぼれ死んだと伝えられる。
江戸時代に入って、延岡城主の有馬氏は高信の子・栄政を探し出し、安賀多神社(神明宮=現延岡市古川町)に総額250石を与え、土持氏はその神官となった。土持氏は昭和22年(1947)まで同神社を守ってきた。現在、同神社は今山八幡宮が管理している。
土持綱義さんは「中城氏(土持山城守)がいたから、土持家が残ったのです。今、私がここにいるのも、中城氏のおかげです」と、400年以上たった今も恩を忘れない。土持さんは長い間、東京で教師をしていたが、退職して現在は土持神社(延岡市妙町)の宮司を務めている。
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「延岡の歴史と文化財」(昭和54年、延岡市教育委員会編集・発行)によると、井上、西階、松尾の各城の規模などは次のようになっている。
【井上城】北側は大瀬川が自然の堀となり、東側一帯は湿田が広がる通称天守山(天子山)を段々に削り、本丸・西の丸・北の丸の三区を構成し、愛宕山との間に空堀(現在の道路)を設け、周囲約1.1キロ、標高66メートルの平山城である。
【西階城】周囲約1キロ、標高40メートルの平山城で、南に大瀬川、西から北へ五ケ瀬、東側には湿田が広がっていた。すぐ下に入り込む金堂(金胴)が池は、内堀として掘られたものか、後世に灌漑用地として作られたものか明らかでない。
【松尾城】城のある山は周囲約1.5キロ、標高60メートルで、東の丸・中の丸・西の丸の三区から構成され、西に小川、南に五ケ瀬川、東に湿田が広がり、さらに北には現在の国鉄高千穂線をはさんで高い山なみが迫っている天然の要害である。(いずれも原文のまま)
*国鉄高千穂線は後のTR高千穂鉄道。2008年12月28日廃止。
(この項おわり)




















