天守山は、延岡の人は「てんしゅやま」といわずに「てんしやま」(天子山)というのがふつう。「昔、土持(つちもち)の殿(との)さんが住んじょったげな」。こんな話を聞かされたものである。天守山は読んで字のごとく、城郭があったわけで、「井上城」と呼ばれる。今は城跡をしのぶものは残っていない。小嶋さんは天守山について、次のように書いている。
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天守山は天主山とも書き、方言では「てんしやま」という。辞典には「中国の神の名、またキリスト教の上帝の意で城郭の本丸の中央または一隅に、最も高く構えた物見櫓(ものみやぐら)。戦時には展望台、司令塔、または最後の根拠地となり、平時には、領主の権勢の表現である」という説明がしてある。
欽明天皇(人皇29代)時代、土持氏は県(あがた)に封ぜられ、290年の後、三河の国に転じ、300年の後、ふたたび県に帰り、永仁5年(一説)延岡城(城山)から井上城に移ったという。その井上城が天守山であった。現在、県立延岡高校のうしろ、西の方にある山で、頂上からは広く東西南北の展望がきく。
絵は天守山の東、春日神社の鳥居付近から撮影した筆者の写真によって描いた。撮影したのは大正の終わり頃であったろうか。
延岡市を眺めるための展望台としては、北に今山公園があり中央に城山公園があり、南に愛宕山の展望台があるが、天守山には、人影がまばらなようである。然し初めての人は、予期せぬ視界の広さに驚くだろう。市内からの距離も手ごろ――足ごろである。バスは三輪行きが愛宕下停留所でとまる。そこからの登山道路はゆるやかで清潔。山頂からは東西南北が展望できる。
現在の延岡高校は延岡中学校だった。明治大正時代には中央の広い田ん甫しかなかった。それが戦後には家で塞がって、畑、田、あき地は半分しか残っておらず、延岡高校の周辺には西中学校、西小学校、幼稚園などが開設されて、まるで教育地区の様相を呈している。
終戦に近い昭和20年6月29日、延岡は敵機数十機の空襲にあい、当時、焼失世帯3774、罹災人口15,233、即死130、行方不明8と報ぜられた。筆者はその空襲の夜、絵の人と馬が描かれているあたりの、苗を植えつけたばかりの田ん甫に跳びこみ、愛宕山の麓をさして、一生懸命に逃げた経験もあったのに――。
(原文を一部修正)
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小嶋さんは、土持氏が欽明天皇の時代に県(延岡)に封じられ、290年後に三河国に転じ、300年後に再び県に戻ってきたと書いている。この記述は、内藤家の侍医・白瀬永年が18世紀末に著したといわれる「延陵世鑑」(えんりょうよかがみ)をもとにしているが、延陵世鑑の内容の一部に疑問点・矛盾点がある。土持氏の由来に関しても、史実と異なるところがある。
文中の「西中学校」は、恒富中のこと。昭和37年(1962)9月1日、延岡中学校から分離独立。西小学校は昭和33年(1958)4月1日、恒富小学校西分校から西小学校として独立。
(この項つづく)
















