明治5年(1872)11月9日、明治政府は太陰暦を廃止して、太陽暦を採用する布告をした。この年の12月3日が、明治6年1月1日と定められたのである。
太陽暦を世界で初めて採用したのは、ローマ法王のグレゴリウス(グレゴリオ)13世で、1582年のこと。実はグレゴリウス13世と、当時の日向国とはチョッとした関係がある。
天正10年(1582)、ちょうどグレゴリウス13世が太陽暦を採用した年、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信のキリシタン大名は、日向国主の伊東義祐の孫、伊東マンショ(満所)ら4人の少年を、ローマ法王のもとに派遣した。いわゆる天正年間少年遣欧使節である。ローマ往復に、滞在期間を含めて8年という大旅行だった。
法王は、日本からはるばるやって来た伊東マンショらを、抱きかかえるようにして頭をなでながら、涙を流して喜んだという。伊東マンショたちは、初めてヨーロッパに渡った日本人とされている。
この遠大な少年使節を企画した有馬晴信の子、有馬直純は延岡藩(5万3000石)の藩主だった。直純の正室は徳川家康の養女、国姫。延岡では、当時女人禁制の愛宕山にのぼったジャジャ馬姫「日向御前」として知られる。
ところで、念願のグレゴリウス13世に謁見(えっけん)した、わが日向の伊東マンショは、帰国後、布教活動をしていたが、慶長17年(1612)11月13日、長崎で病死した。間もなく400年忌がくる。
で、初めにもどって、日本の太陽暦採用を決めたのは、岩倉具視らの政府要人の海外視察で、留守内閣を預かった西郷隆盛たちだった。その5年後、西南戦争が勃発している。転戦に次ぐ転戦で、薩軍の総指揮官・西郷隆盛は、富高(日向)、門川を通り、ついに当時の鹿児島県最北端の延岡にやってくる。
そして延岡北部の和田越で、官軍と最後の戦いに挑んだ。ときに新暦の明治10年(1877)8月15日。
それはともかく、今我々が使っている暦は、西郷さんが決めてくれたのだから、「西郷暦」と呼んでもいいのではないか。
















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