小嶋さんは「延岡百景」の中で城山のことを、次のように書いている。
「明治初年には全山に老松が茂り、夕方になるとその老松に茂みに、無数のカラスが集まってきたという。カラスの寂しげな啼き声が、七町(ななまち)があった町々の、大よそ一ぱいに聞こえたという」


カラスはともかく、今の城山を見る限り、「全山に老松が茂り」という件(くだり)は想像がつかない。現在の城山にはマツの木は数えるほどしかなく、本丸広場の内藤政挙公銅像北側にあるマツの巨木が目立つていどである。あとはスギやヤブツバキ、サクラ、スギのほかは、ほとんど雑木に覆われている。ことにヤブツバキは有名で、日本3大ヤブツバキとして、全国に知られている。「ノベオカ」「シロヤマ」名のついた種もある。
城山のサクラは、開花時期に合わせて毎年電飾が行われているが、サクラの本数でいくと、愛宕山に軍配があがる。ちなみに城山250本、愛宕山400本。今山のサクラのほうも見ごたえがあり、戦前からのサクラの名所・城山も、サクラに関しては、最近少し影が薄くなってきた。一時は600本もあったのだけど。今後はまとめて「サクラの名所・延岡三山」(今山、城山、愛宕山)で売り出してはどうだろう。
それにしても、明治の初めころまで城山全体を覆っていたマツの木は、ナゼ消えたのか。マツクイムシに食害されたのか。それとも、明治10年(1877)の西南戦争(西南の役)で、城山が官軍の艦砲射撃を受けたとき、焼けてしまったのだろうか。
西南戦争のとき官軍は、方財沖に5隻の軍艦を配置、延岡市街に砲身を向けて、8月14日朝から盛んに撃っている。その砲弾のいくつかが城山までとどいた。薩軍(西郷軍)が延岡から撤収したのを知らずに、砲撃を加えたようであるが、城山のどこがどのていど焼けたのかは、ハッキリしない。ただ城山のマツが消滅した事実はあるわけだから、西南戦争のときに、かなり焼失した可能性はある。
マツクイムシ説も捨てきれない。明治38年(1905)ごろ、長崎市一帯でマツクイムシが猛威をふるった後、全国に広がっている。城山もこの大流行に巻き込まれたのかも知れない。ただ全国流行は、長崎の流行から10年ほどたっており、明治26年生まれの小嶋さんなら、覚えているハズ。しかし、小嶋さんの記録にはない。
参考までに、官軍の砲撃で城山近くの柳沢町の商家6軒が焼けている。「柳沢町」に関しては、シリーズの「柳沢町」の項で、詳しくふれたい。
城山二の丸の西端から300メートルほど離れたところに、西の丸がある。ここには旧延岡藩主の内藤氏の屋敷があって、市民は「御殿」と呼んで親しんだが、昭和20年(1945)6月29日夜から30日朝にかけての延岡大空襲で焼失した。
戦後、西の丸にはNHK宮崎放送局延岡支局の局舎と、アンテナが建った。後にNHKの局舎とアンテナは東小の東側に移転、昭和38年(1963)、その跡地に郷土の歴史・民俗・文化資料を収めた内藤記念館が建てられた。館内には市教委文化課や市文化連盟事務局も入っている。
内藤記念館のすぐ西隣には、延岡測候所があったが、現在は撤去されて、自動化された観測機器と、データ送信用のアンテナだけが野外に残っている。
















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