今回、小嶋政一郎著「延岡百景 今と昔」(光輪舎刊)をもとに、「新延岡百景」を連載することにした。
小嶋政一郎(雅号・一路)さんが亡くなって早31年になる。小嶋さんは、明治26年(1893)延岡市博労町の生まれ。旧制延岡中学校、宮崎師範学校を卒業して教師となり、延岡小、旧制延岡商、岡富小、港小=当時は東海小=(校長)、方財小(同)、南小(同)、延岡中、上南方小上三輪分校(鹿越分校)、ブラジル東本願寺日本語学校などで教べんを執った。
その傍ら郷土の歴史、民俗の研究にも尽力、「教えざる教育」「思惟は育くむ」「延岡町郷土読本」「方財島」「延岡のことば」などを著している。また民謡・歌謡・童謡作詩家の野口雨情と親交があったこともあって、童謡への造けいも深く、「コスモスのうた」(方財小に詩碑)などの作品を残している。延岡市文化功労賞、宮崎県文化賞、玉川大学総長賞(小原賞)など受賞多数。
小嶋さんが「延岡百景」を描き始めたのは、延岡市教委在職中の昭和30年(1955)ごろからで、当初は「昔の延岡50景」だった。それも10景ほど描きあげたころ、朝日新聞記者の目にとまり、同新聞に連載、わずか10回余だったが好評を博した。
ところが32年(1957)ブラジルに渡ることになり、急いで30景ほど書き足して出国した。36年(1961)に帰国したが、「もっと書いてほしい」という周囲の要望もあり、再び描き始めた。
その後10年余の歳月をかけ、先の50景と合わせて「明治・大正延岡百景」が完成した。それを待っていたかのように、48年(1973)8月5日から朝日新聞が再連載を開始、またも大好評をよんだ。
連載後、あちこちから「一冊の本にしてほしい」という声が高まり、延岡春秋社主宰の芦谷新一さんを会長に、有志43人で「延岡百景今と昔」刊行委員会を立ち上げた。委員会事務所(平原町)は日本ピーシーテー建設(株)社長の大神龍馬さんが提供。その大神さんをはじめ、方財区長の縫暎之さん、吉田印刷所(株)専務の永田操さん、大神さんの令嬢・のりえさんは、寸暇を惜しまず、専従事務員のようにして編さん作業をこなした。小嶋さんの奥さん・トシさん(故人)や他の会員も、それを支えた。
こうして51年(1976)5月、1000部の限定版として発刊にこぎつけたわけだが、それがまたたく間に完売してしまった。このため、あわてて増刷せざるを得なくなり、小嶋さんや刊行委員は、予想外の反響に驚いたものである。
小嶋さんは、発刊翌年の52年(1977)11月6日逝去された。享年86。墓所は延岡市中央通の光勝寺。すでに発刊から32年、その間に芦谷新一さん、大神竜馬さん、縫暎之さんほか刊行委員会の半数の方々が亡くなられた。寂しい限りである。
私事で申しわけないが、小嶋さんの「延岡百景」の原画に初めて接したのは、50年ほど前のことである。市職員だった橘よね子さん(故人)が、筆者の家に原画を持ってこられ、父に見せながら、あれこれ尋ねていたのを、今もハッキリ覚えている。
そんな筆者が、「延岡百景、今と昔」の刊行委員の一人として、「今」の写真撮影の大半を担当することになろうとは、ゆめゆめ思わなかった。不思議な縁である。
仕事の合い間をぬっての撮影で、撮り終わるのに3カ月ほどかかった。一人で出かけたり、大神さんに車を出してもらったりして、撮り回ったわけだが、そのうちの何回かは小嶋さんも同行した。後日紹介するが、小嶋さん本人が写っている写真は、そのときのものである。
ところで、ナゼ「新延岡百景」なのかというと、「延岡百景 今と昔」が世に出て32年の間に、延岡のまちも人も、ずいぶん様変わりしており、今の延岡の様子を残しておかなければ、今の延岡が忘れ去られてしまうだろうという思いに駆られたからである。天国の小嶋さんをはじめ、芦谷さん、大神さん、縫さんたちも、それを願っておられることと思う。
幸いなことに筆者は、小嶋さんと大神さんの依頼を受けて「延岡百景、今と昔」の写真撮影を担当した経緯があるだけに、この本をベースにして、今の延岡を紹介する事にした。
小嶋さんの長男・宏さん(故人)夫人・かず枝さんは「父は教育熱心な人でしたし、無邪気なところがありました」と、振り返る。かず枝さん宅の座敷には、宏さんと並んで小嶋さん夫妻の写真が掲げられている。
















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