「城山」の名を冠する地名は、全国至る所にあり、延岡の城山もその一つ。沖積平野の延岡三角州の中ほどに、ポツンと島のようになっている海抜53メートルの丘陵である。愛宕山、今山とともに、市街地に囲まれて立地する緑のオアシスであり、市民の憩いの場所になっている。この際、城山、愛宕山、今山を「延岡三山」と命名したい。


城山に初めて城を築いたのは、初代藩主の高橋元種である。内藤藩の歴史書「延陵世鑑」によると、慶長8年(1603)に松山の城(松尾城)から移っている。高橋氏のあと、有馬、三浦、牧野、そして内藤と、藩主が目まぐるしく変わり、明治3年(1870)、延岡藩内藤氏8代目の政擧(まさたか)のときに廃城となった。内藤氏はその後、城全体を延岡市に寄贈している。
延岡城のことを、古くは「県城」(あがたじょう)というが、これは延岡の古地名「県」を冠したものであり、別名「亀井城」ともいう。今も亀井神社、亀井橋、内藤家顕彰会会誌「亀井」などにその名をとどめている。
延岡城はいわゆる平山城で、天守台(本丸)、本丸(二の丸)、二の丸(三の丸)、三の丸、西の丸などからなり、東西236メートル、南北145メートル、広さ2万2031平方メートル(6676坪)。北側は五ヶ瀬川、西側は五ヶ瀬川の分流(現在はない)、南は大瀬川が天然の堀になり、人工の堀は東側に築かれた。堀については、このシリーズの「蓮池」の項でふれたい。
随所に石垣が見られ、中でも圧巻は、二の丸から本丸に向かって立ち上がる「千人殺し」と呼ばれる高さ約22メートルの大石垣。一番下の石をはずすと、石垣が崩れ、千人をも殺せるといわれる。千人殺し西側の二の丸広場では、毎年10月に「天下一薪能」が催され、今年は4日にあった。
天守閣は5階と3階の2説があるが、天和3年(1683)に焼失しており、その後再建されていない。再建を望む声は以前からあるものの、現在に至るまで具体化していない。再建されたのは、二の丸北側の登城口にある大手門(正式には北大手門)だけで、平成4年(1992)に完成した。大手門に向かって右側は、城主だった内藤氏歴代の墓所になっている。歴代の内藤氏については、「御殿」の項でふれたい。
天守台には、明治11年(1878)から時を告げている「城山の鐘」があり、その西側には天守台への登り口の虎口(こぐち)がある。この虎口は平成14年(2002)度の発掘調査で見つかった。
天守台跡の北側下の三の丸には、見事な日本庭園(枯山水)がある。この庭園は明治以降に造られたものとみられ、一時荒れるに任せてあったのを、昭和56年(1981)の昭和天皇行幸のときに修復された。枯山水のそばには、初代市長で名誉市民の仲田又次郎の胸像、その南側の一段上には日本の民間パイロット第1号の後藤勇吉の碑が建っている。
本丸広場には、最後の藩主だった内藤政擧公の銅像と、戦没者慰霊碑がある。また二の丸広場の北西端には井戸跡があるが、危険なため金網でふさいである。しかし、金網越し井戸の中を見ることができる。二の丸広場の南側上には「晩稲晩化」を成功させた日吉小次郎の胸像と顕彰碑がある。日吉小次郎については「晩稲晩化」の項で、詳しく紹介する。
二の丸と枯山水との中間、大手門のすぐ東側には、歌人・若山牧水と谷自路、越智渓水の歌碑が、並んで建っている(この項つづく)
*注=天守台(本丸)、本丸(二の丸)、二の丸(三の丸)としたのは、城山の古地図の中に、天守台が本丸、本丸が二の丸、二の丸が三の丸となっているものがあるためである。
















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